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キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第26回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<第5章 救いの経綸>

今回から、第5章に入ります。本章では、神は人間の救いの計画を決めておられるのですが、その内容を考察します。
「結実」の本文に要約して述べられていますので、それをそのまま引用しましょう。
・・・・・・・・・・
   御救いはあなたが
   万民に備えられたもので、
   異邦人を照らす啓示の光、
   御民イスラエルの栄光です。
(ルカ2:31-32)
 本書は聖潔に焦点を当てていますが、神が人間のために備えられた救いの全体像を把握しておくことは、その聖潔を理解し、聖潔に生きるために重要です。本章では以下の事項について考察します。
 ・救拯史について
 ・個人の救いの概観

1.救拯史について
 聖書歴史を概観するとき、神は時代によって人間に与える恵みと、人間に課す課題、要求する内容、基準、律法を変えられたことが分かります。現在生きている人間も、神が定められた聖書歴史の一部において生きているのであり、聖潔を考える上において、その歴史上の位置づけを把握していることは欠くことの出来ない要件です。本書ではその概論だけを述べ、詳細を取り扱うことは致しません。詳細な研究には、エーリヒ・ザワーの「世界の救いの黎明」(文献55)と「十字架の勝利」(文献56)などが参考になることと思います。

・天地創造
 神は六日(創世記1:1-2:3)間で天地を創造されました。これは現在と同じ暦日の六日です。現在の時間で進行している事象の何十億年分かを神はたったの六日で実行されたのです。
(創造は奇跡であって、神が手を加えなければ無限の時間を重ねても、この世界ができるわけではありません。神が創造された世界を後追いで調査すると、今の自然法則に従えば長い年月が経っているという結果になります。しかし、神が時間に縛られることはありません。)

 アダムは、人間以外の動物たちのように創造されたのではなく、これらとは全く断絶して、神が特別に地の塵から創造されました。神は人間に魂(心)を与え、人霊をそのうちに住まわせて霊、魂、体の三重の構造とし、霊界と自然界にまたがる生き物とされました。

 創造されたときのアダムは、神がご覧になって「非常によかった。」(創世記1:31)と言えるほどに完全でした。これを「アダムの完全」と呼んでいます。そして大変長寿でした。アダムの年齢(創世記5:5)、ノアの年齢(創世記9:29)、アブラハムの年齢(創世記25:7)、ダビデの年齢(サムエルⅡ5:4、列王記Ⅰ2:10-11)、イエスの年齢(ルカ3:23)いずれを語るときも聖書のトーン(語調)は全く変わっていません。すなわち同一の暦日単位による年齢を述べています。

・アダムとエバの堕落
 アダムとエバが罪を犯したとき、その完全は失われて、罪の性質を持つ者となりました。そして同じ罪の性質をもつ子孫を生みました。(創世記5:3)これが、神の人間に与える救いに、聖潔の恵みを備えることが必要である原点です。聖潔を、罪の性質はそのまま不問にし、”聖霊に満たされて、罪を犯さなくなること”と考える人々がいますが、そうではなく、聖潔の本質は”罪の性質に対する解決”にあります。

・アブラハムとイスラエル民族
 アブラハムとその子孫であるイスラエル民族の使命は、イエス・キリストがこの世に来られる道となることでした。ですから、アブラハム自身の選びも、イシュマエルが退けられてイサクが選ばれたことも、エサウが退けられてヤコブが選ばれたことも、ただこの使命を担うための選びに過ぎず、本来一人しかいらないものであったのです。カルビン主義者たちはこの選びと、永遠の滅亡からの救いとを混同しています。
 モーセの律法と動物の犠牲による贖罪の儀式、これらは教育上の雛形でした。
「その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えている」(ヘブル8:5)のです。ですから、旧約の律法では、食物、衣服、住居、生き物の種類、死骸、排泄物、体からでてくるもの等々のあるものを汚れたものと扱って、その教育素材とされています。これらはあくまでも宗教上の真理を教えるものであって、現代人が考える衛生などの見地に立つものではありません。「らい病の患部が人にあるとき…もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。」(レビ13:9-13)という規定がそれを示す好例です。
 これらの規定は、十戒や「心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し…」(申命記30:6)「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ19:18)の規定同様に、新約の光のもとに置き換えられて、キリストの律法に組み入れられるのです。そこに雛形としての意味合いがあります。
 その理由を神はこう言われます。「あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしょうと、国々の民からえり分けたからである。」(レビ20:26)
ルターは、ローマ人への手紙序文(文献57)の中で、律法は行為のみでは満足されえず、心の根まで要求するとしています。しかし、ルターの解釈は新約のキリスト者に対してのみ当てはまるものとして限定される必要があるでしょう。旧約時代の人々への要求は、外面的なものでよしとされました。「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」(出エジプト23:5)これがモーセの律法の範囲です。キリストの律法では、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイ5:44)であり、心の根まで要求され、「それを起こしてやりたくない。」と思ってはいけないのです。ですから旧約のユダヤ人に要求されている義とキリスト者の義には差があると考えるべきです。

・キリストの来臨(初臨)
 永遠の神が、人間とともに時間の世界におられる不思議がここにあります。そして真の人間となられ、霊、魂(心)、体を持たれました。
 忘れてはいけないことは、イエスは、旧約に従って生きられたことです。彼は生まれて八日目に割礼を受けられ、年毎の祭りに参加されました。ユダヤ人の生活上の規範の中に生きられたのです。ですから、在世中に弟子達に要求された生活の規範は、旧約の律法によるものでした。
 キリストの地上生涯には贖罪に加えて次の三つの重要な意味合いがあります。
 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15-16)キリストご自身が人間と悩み苦しみをともにし、またその弱さ、頑なさを味わわれることがその一です。
 二つ目は弟子の育成でした。
 三つ目は、聖霊がイエスの内に住まれ、イエスと悩み苦しみをともにされ、人間の弱さ、頑なさを嘆かれることでした。A.B.シンプソン(58)はこう語ります。「それで多分(旧約と新約の聖霊の)相違点を要約すればこうであろう。旧約において聖霊が神たるの尊厳と栄光をまとい父の霊として来たり給うたのに引き換え、新約において聖霊はイエスの名代として来たり我らの経験と生涯の中に彼を現実に生かすため、子の霊として来られたという点である。…そうなるには、どうしても三年間ナザレのイエスの中に住み給う必要があったのである。」こうして聖霊はキリストの心を心とすることのできるお方になられました。
 こうしてイエスは、自らは天における執り成し手となられ、地上に「キリストの心を心とすることのできる弟子」と、「キリストの霊」であり「キリストの心を心としておられる聖霊」とを残されたのです。

・十字架の死(贖罪)と復活
 十字架の贖罪は、人間に恵みが与えられる法的根拠です。それは、罪の赦しはもとより、聖潔も、肉体の復活すなわち栄化された霊の体を与えられることもすべて贖罪によるのです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)贖罪は完成され、救いの準備ができましたが、それを個人が受け取るには、「信じる」ことを要求されます。この聖書のことばは明快で、信じることだけが救いの条件であり、だれでも信じさえすれば救われることを示しています。

・聖霊の降臨
 信じた人々のうちにキリストの贖罪を実現するお方は聖霊です。救いの恵みに与ることも、潔めの恵みに与ることもすべて聖霊がなさるのです。
 聖霊がおいでになり、新約の時代に入ったのです。イエスの在世中のできごとは、新約の基準に入れるべきではありません。「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方をすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ16:12-13)とのイエスのことばが成就して、新約の基準が明らかにされました。そのことについてもっとも大きな働きをしたのはパウロでした。
 新約の時代は、聖霊の時代であるとともに教会の時代です。その規範は、キリストの律法であり、聖霊がおられて信じる人々の中にキリストの救いを実際に実現されます。
 私たちはこの時代に生きています。

・キリストの再臨と教会の携挙
 「あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有り様で、またおいでになります。」(使徒1:11)
「主は号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それから、キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」(テサロニケⅠ4:16-17)
 聖書は、キリストの再臨と彼を信じて死んだ死者の復活と、生きている信者の携挙とを明確に告げています。しかし、多くの信者に忘れられている一事があります。それは「聖くなければ、だれも主を見ることができません。(この聖潔なしに、だれも主にお会いできません。)」(ヘブル12:14)とも明確に記されていることです。
 死ぬまで潔められないと信じている人々は、生きたまま再臨の時を迎えたらどうなるのでしょうか。

・第一の審判と千年王国
「彼らは生き返って、キリストともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。…かれらは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに千年の間王となる。」(黙示20:4-6)
 キリストを信じて死んだ死者は千年王国の前に復活があり、生きて主の再臨を迎えた人々と千年王国の幸いをともにするのです。千年王国の間、サタンは「底知れぬところに投げこまれ…諸国の民を惑わすことのないように」(黙示20:3)され、自然界全体にその影響が顕れて「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」(イザヤ65:25)との聖言が文字通り実現します。
 千年王国のはじめに諸国の民が裁かれますが、これは第一の審判であると言えます。

・世の再反逆と滅亡
 「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され」(黙示20:7)て諸国の民をもう一度惑わし、人間の多くが反キリストの戦争に加わることが示されています。これは、千年王国の幸いを味わっても、人間の、主の権威に服すことを望まない心は変わらないことを示します。しかし神はその御力を現し、反逆するものを滅ぼし、サタンを「火と硫黄との池に投げ込まれ」(黙示20:10)ます。

・死者を含む第二の審判
 「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。…一つの書物が開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ人々はこれらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。…火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示20:11-15)千年王国のはじめに復活しなかった死者もすべて復活し、この最後の審判とも言われる第二の審判を受け、第二の死に定められます。

・新天新地と天上のエルサレム
 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地とは過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように
整えられて、神のみもとをでて下ってくるのを見た。」(黙示21:1-2)神は現在の世界を古いものとし、これをぬぐい去って新しい天地と、永遠の都としてのエルサレムとをお与えになります。
 キリストの救いに与かった人々は、キリストを讃美して永遠に至ります。
    ・・・・・・・・・

文献
(55)エーリヒ・ザワー、世界の救いの黎明、聖書図書刊行会発行、いのちのことば社、改訂再版、1975
(56)エーリヒ・ザワー、十字架の勝利、聖書図書刊行会発行、いのちのことば社、改訂再版、1975
(57)マルチン・ルター、聖パウロのローマ人にあたえた手紙への序文、石原謙訳、岩波書店、第三四刷、1978、p.69
(58)A・B・シンプソン、新約における聖霊、佐藤邦之助訳、いのちのことば社、再版、1960、p.2

(仙台聖泉キリスト教会員)