同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第17回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<4.聖書の示す人間観>

 聖書の示す人間観として、以下の項目について考察を進めています。
 ・人間創造の目的
 ・人間の構造
 ・人霊とその機能
 ・魂とその機能
 ・良心について
 ・体とその機能
 ・欲求について
 ・肉という表現について
 ・人の誕生
 ・罪と罪の性質について
 ・罪の性質の遺伝
 ・自我の死は存在するか?
 ・地上生涯の価値
 ・いかにして己を知るか

前回、
 ・人間創造の目的
 ・人間の構造
の2項目について掲載しました。
 「人間の構造」について、「体」と「魂(心)」と「霊」から成り立っていることが書かれてあり、それを取り上げました。聖書は、「体」の部分を「骨」と「肉」と「血」と取り扱っており、それも興味深いことです。「聖書の示す世界観」の章で説明されている、「血」が「いのち」であるとしている点は殊に興味を呼びます。イエスが私たちに「血」をお与えになったのは「いのち」をお与えになったのであることを暗示していることは言うまでもありません。
 「骨、骨格」は人の全体的な姿に決定的影響を及ぼします。他の動物の骨格では、人間の姿を保てません。また、建物でも、世の団体つまり会社とかあるいは行政組織や他の種類の組織でも、何かの行動のプログラムでも、骨組みがあってその姿を示します。
 「肉」もまた、聖書には興味深い記述が溢れています。アダムは妻エバを「私の骨の骨、肉の肉」と言った、とか、ノアの洪水の前、神が「人間は肉に過ぎない」と言われたのはどういうことでしょうか。「肉」には他に通常の肉体の意味と「罪の性質」を示す意味もあり、それも興味深い事柄です。それらも聖書研究の豊かな題材ではあり、別の節で考察されています。
 今回は「人霊とその機能」についての節をとりあげます。
最近のキリスト教関係の出版物をみても「人霊」ということばはあまり登場しないように感じます。しかし、「天路歴程」の著者バンヤンが書いた日本語訳「聖戦」という書名の著書には、「人霊」を城に譬えて、人間の罪と救い、悪の霊との信仰の戦い、戦いの場におけるキリストの援助など、パウロが「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)と書いた人間の信仰の戦いが、天路歴程と同様みごとに書き表されています。

 「人霊」について、以下に本文を引用します。

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3.人霊とその機能
 「<3. 聖書の示す世界観> 6.人格」の項の中で述べたように、人格とは霊の別称です。従って人間は「霊」を有するものだから、人格なのです。おなじ引用箇所で述べたように、人格には自分の事に関する意志決定をする権威を与えられています。それゆえ、自分の決定に対する責任があります。
 人間の自分に対する責任は、人間の自然界に属する部分即ち肉体と魂にあるのではなく、霊にあります。「私」という思いを持つのは、人霊の働きです。そして、「私はこうする。」と意志決定します。それが人霊の基本的な機能です。
 人生に霊界に関わらないことは存在しません。「耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方がご覧にならないだろうか。」(詩篇94:9)、「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」(ルカ12:7)神はすべての人のすべての歩みをご存じで、それぞれが行っているすべてのことを、その人の霊界の歩みと数えられ、裁きの日にその如何を裁かれるのです。この世のことで神の許し無しに行われることはありません。ヨブの苦難も神の許容された範囲のことだけが彼の遭遇した苦難でした。「主はサタンに仰せられた。『では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。』」(ヨブ1:12)「主はサタンに仰せられた。『では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには手を触れるな。』」(ヨブ2:6)サタンが手をつけることができたのは、はじめは彼の持ち物だけでした。二度目は彼の体に病気を起こすことが許されましたが、ヨブを殺すことは許されませんでした。そしてその通りに事が運ばれました。これらの事例は、人生におけるすべての出来事が神の許容のもとに行われ、霊界に属するものであることを示しています。
 神は人格の尊厳を認められ、人格の自分に対する決定を曲げることはなさいません。神が特別に必要であると認められたごく希な短期間の出来事を除けば、神は何か事を行われるとき、必ず人間自身に意志決定させなさいます。そのごく希な短期間の出来事の一例を挙げておきます。「彼(サウル)もまた着物を脱いで、サムエルの前で預言し、一昼夜の間、裸のまま倒れていた。このために、『サウルもまた、予言者のひとりなのか。』と言われるようになった。」(サムエルⅠ 19:24)
 神はアブラハムへ「あなたは、…わたしが示す地へ行きなさい。…」(創世記12:1-2)と言われましたが、アブラハムが神のその言葉に応えて、「行こう。」と意志決定したのです。また「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを…全焼のいけにえとして…ささげなさい。」(創世記22:2)と言われたときも、「ささげる。」意志決定をしたのはアブラハム自身でした。
 「2.人間の構造」の項で述べたように、体と魂は本来自然界に属するため、それらは肉体の死とともに物質としては消滅し、霊の体に置き換えられます。従って地上生涯における人間のこの三部分のうち、霊のみが裁きの日に神の前に立ちます。ですから、霊のうちに人生の全てが刻まれると言っても差し支えありません。人生のすべての行動に対する義務、責任は霊が負っているのです。私がこれこれを行ったのは私の体であって、私の霊ではないとするのは、使徒ヨハネが戦わなければならなかったグノーシス派の考えと同じになります。
 霊と交わりを持つことができるのは霊であって、自然界のものにはできません。人間が神と交わりを持つことができるのは、人間が人霊を持つ存在であるからです。霊同士は互いに交わりを持つことが出来、機会、つまり神の許容があれば人間同士、人間と天使、人間と悪霊達とは交わりを持つことができるのです。使徒信条に、「我は…聖徒の交わりを信ず…」というくだりがありますが、その意味していることはこのような霊の交わりを言うのです。この「聖徒の交わり」については、<7.教会と聖潔>の章で考察します。
 霊の死、霊の病こそがそもそも聖潔を必要とする原点であり、本人の意向を無視して救ったり、潔めたりはしない、つまり人格の自分に対する権威を認めつつその解決を与えることが課題なのですが、このことについては<5.救いの経綸>の章で考察します。
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(仙台聖泉キリスト教会員)