同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第13回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<3.聖書の示す世界観>

5.人格
 「人格」ということばは、誰か特定の人を表すための重要なことばです。
以下に「結実」の本文を引用します。
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 人格と言う言葉は、聖書には出てきません。人格という言葉が、日常どのような意味合いで用いられているかを考えてみると、以下の二種類の意味合いで使われています。その一つは「人格の尊厳」という表現の中で使われる場合、もうひとつは、人の性格、品性、人柄、行動に対する習性など、つまりその人が「自分を顕わす姿の総称」を示すものとして使われる場合です。どちらの意味で使われているかは、都度、会話や文章の脈絡から判断しなければなりません。
 「人格の尊厳」という使い方の意味する「人格」という言葉に当てはまる、つまり”人格である”存在者は、神、天使、サタンと悪霊達および人間です。これらは、霊界において命を有する存在者であって、「聖書に霊と呼ばれているものが人格である。
」と定義するのが適切です。人格とは、霊の別称に他なりません。人格を霊と同一と考えることは、ワイレーとカルバートソンも、「神は人間を霊――…、即ち人格――として造られた。」(30)、「霊はそれ自体人格であり…」(31)と述べ、これを支持しています。
 霊を人格と呼ぶときには、その霊の「自分の事柄に対する権威」に関する視点が根底にあるのです。
 天使、悪霊など人間以外の霊は人格であるにもかかわらず魂を持っていませんから、人格を魂に関連づけて定義することには無理があります。
 キリスト者一人一人に対し、「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる」(ローマ8:9)のですが、人間のうちに聖霊が宿って下さる内容をよく観察するならば、それは神と人とが一つの人格になってしまうことではなく、人自体の人格と、聖霊という人格とが、その人の魂のうちに宿ることであると分かります。「私は神と合一した。」という考えは、ジョン・ウェスレーが熱狂として厳しく反対したこと(32)に他なりません。このことはキリスト者の経験の上からも確かであって、救われた後また潔められた後も、確かに変化させられた自分がいることが分かりますが、同時に共におられる聖霊が、別の人格として魂のうちにあってささやいて下さるのを見いだします。「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く。」(イザヤ30:21)と書かれてある通りです。
 「イエスのからだの神殿」(ヨハネ2の21)「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり…」(Ⅰコリント6:19)というように、体が神殿であると書かれています。ですから、聖霊は人の魂の中に人霊とともに住むと考えられます。以下の箇所も同様の示唆を与えています。「…父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためにです。」(ヨハネ14:16)「その方は真理の御霊です。…その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:17)「…だれでもわたし(イエス)を愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)「見よ。わたし(イエス)は、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:20)この戸は、人間の魂(心)についているものであることは明白です。
 アンドリュウ・マーレーは彼の著書「キリストの御霊」(33)の中で、人の肉体を神殿の前庭、魂を聖所、霊を至聖所と考え、人霊のうちに聖霊が入られるとしています。それは、人間が自分の権威の領域であるとしている人格そのものを聖霊に明け渡し、聖霊が自由に人霊の中までもご覧になりそこを満たされる、霊も含め魂の内すべてを聖霊の意のままにされることに他なりません。その経験は、S.A.キーンの「信仰の盈満」(34)に明確に示されています。
 人格という言葉は、しばしば「あの人は人格者だ。」と言うような用い方がされます。これがはじめに述べた人格という言葉の第二の使い方であって、それはその人の、品性、人柄、社会的能力などがすぐれて良いものであることを言っているのです。
 「人格の形成」という使い方もされますが、それは、存在しなかった人格が造り出されるのではなく、人格の持っている姿即ち、品性や能力が変化していくことを指しています。従ってこの使い方も、人格の第二の意味合いであることが分かります。
 人格を人間にある自然的神の像と定義する(35)、(36)のも、第二の使い方に相当します。
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本文に解説してある通り、聖書に「霊」と呼ばれているものが「人格」であることをこころに止めておくとよいと思います。
また、よくお祈りの中で、人を指して「・・たましいを・・」と表現しますが、それも「人格」と同じ意味で使われています。

今回は文献も記載しておきます。

(30)H・オートン・ワイレー、P・T・カルバートソン共著、キリスト教神学概論、日本ウェスレー出版協会発行、イムマヌエル総合伝道団出版局、1982、p.195
(31)ワイレー、カルバートソン、前掲(30)、p.203
(32)ジョン・ウェスレー、キリスト者の完全、赤澤元造訳、IGM&WMM出版協会、
1952、p.177
(33)アンドリュウ・マーレー、キリストの御霊、沢村五郎訳、いのちのことば社、 初版第6刷、1978、p.230
(34)S・A・キーン、信仰の盈満、大江邦治訳、日本ウェスレー出版協会発行、イムマルエル綜合伝道団、1960
(35)ハリソン・デービス、聖化論、大江信訳、日本ナザレン教団出版部、1959、p.20
(36)ワイレー、カルバートソン、前掲(30)、p.202

(仙台聖泉キリスト教会員)