同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第25回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<4.聖書の示す人間観>

 聖書の示す人間観のテーマとして次の項目を取り上げて検討しています。

今回は第4章で取り上げた残りの3項目
・自我の死は存在するか?
・地上生涯の価値
・いかにして己を知るか
を取り上げます。

「自我の死」というテーマを取り上げるのは、本文中にも書かれていますが、聖潔を語る人々のあいだで、「自我に死になさい」といわれることがあるからです。
本文の解説の中心は、自我は死ぬのではなく、潔められるのであるとしていますが、
その中心となる事柄は、「うなじのこわさ」
(出エジプト記32:9)がとれて、神に全く服従できるひとになることにあります。「自我の死」ということばは、表現としては相応しくありませんが、その意味している内容は、聖潔というテーマの消極面の中心的な、重要なことがらです。

「地上生涯の価値」では、人間が地上での生涯をおくる意味を考察していますが、価値ある人生を送るためには、聖潔が必須の要件なのです。

「いかにして己を知るか」は、己を知ることが聖潔の必要を知り、それをいただき、それに歩む、聖潔の生涯をおくるために、不可欠のことがらですから、そのヒントを提供しているのです。

では本文を引用しましょう。

・・・・・・

12.自我の死は存在するか?
 人間がどのようなものであって、「聖められることを追い求めなさい。」(ヘブル12:14)との命令に応えようとして、何をしていかなければならないか考えるとき、”自我に死になさい。”と勧める人々がいますが、その意味合いを正しく理解できるよう解説することが必要です。実際にその勧めの内容を分析すると、単に言葉の用い方が不具合であるだけの場合もあります。ただ、自我に死ねと言われると、大変困ります。先に述べたように、「私は」という思いが自我の中心であって、自分が生きている限り、それは無くならないものだからです。
 では、この命題に対して、どのような言葉を用いるべきかということは単純で、
”自我は潔められなければならい。”といえばよいのです。
 それは地に播かれた種が芽を出すと、元の種は朽ちてしまうように見えますが、新しい植物となって成長するような変化であって、「私」自体は死にも無くなりもしないのです。
 実際に潔めに与るとき、そこに「古い私」は姿を変え、「潔められた私」がいることを見いだします。「罪に対して死んだ私たち…」(ローマ6:2)であり、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなる」(ローマ6:6)ことであり、「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」(ローマ6:11)なのです。

13.地上生涯の価値
 人間の地上の生涯は、「贖罪があたえられる期間である」とともに、「聖霊が人とともに人の魂(心)に住んで下さって共に過ごす期間である」故に、神はこれを尊ばれます。
 地上生涯は永遠の世界におけるその人の地位を決定します。天国に於ける地位、栄光はすべての人が同一なのではありません。エーリヒ・ザワーはその著「栄冠をめざして」(54)に以下のようにのべています。「天の賞は、各人に平等に与えられるのではなく、忠実さの程度に従って与えられる。」それはキリストの語られたタラントの譬え(マタイ25:14-30)にも、ミナの譬え(ルカ19:11-27)にも示されているものです。

14.いかにして己を知るか
 前にも述べたように、人は自分を知らないと聖潔の必要を認めることができません。恵みは求める者に与えられるのですから、その必要を悟らないと、求めはおきず、従って恵みに与ることもありません。どのようにしたら、自分を知ることが出来るのでしょうか。その要点を列挙しておきます。
・自分の欲・欲求を観察することによって
・自分の思いはかること・関心事を観察することによって
・自分の意志決定、特にその動機を観察することによって
・自分の結果的な行動を観察することによって
・他人が自分をどのように観るかを聞くことによって
・聖霊の光による直接的知覚によって

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

(仙台聖泉キリスト教会員)