同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第21回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<4.聖書の示す人間観>

 聖書の示す人間観のテーマとして次の項目を取り上げて検討しています。

 ・人間創造の目的
 ・人間の構造
 ・人霊とその機能
 ・魂とその機能
 ・良心について
 ・体とその機能
 ・欲求について
 ・肉という表現について
 ・人の誕生
 ・罪と罪の性質について
 ・罪の性質の遺伝
 ・自我の死は存在するか?
 ・地上生涯の価値
 ・いかにして己を知るか

 今回はその中の、
・良心について
を取り上げます。
 聖書中の人物で、良心について多く語ったのは、パウロです。
パウロは自らも良心に恥じるところのないように生活したといい、他の人々にもそのように生きることを勧めました。
 私たちの周囲のキリスト者たちのあいだで、この良心について語られることはそう多くないように感じます。このテーマを考察しておくことは、信仰生活の上で重要なことでしょう。

まず、テキスト本文を引用することにします。

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5.良心について

・良心の定義
 良心という言葉は、新約聖書にたくさんでてきます。「彼らの良心もいっしょになってあかしし、…」(ローマ2:15)「彼らの…弱い良心が汚れるのです。」(1コリント8:7)「彼らは良心が麻痺し…」(1テモテ4:2)「私は今日まで、全くきよい良心をもって神の前に生活してきました。」(使徒23:1)「執事は…きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人…」(1テモテ3:8-9)「信仰と正しい良心を保ち…」(1テモテ1:18)「私たちは正しい良心を持っていると確信しており、…」(ヘブル13:18)「バプテスマは…正しい良心の神への誓いであり、…」(1ペテロ3:21)などがその一部です。
 これらの箇所は、良心という言葉が人間の行為が神の前に正しいか否か、神に喜ばれるものであるか否かを判断することに関わっていることを示しています。
 良心とは何であるかの定義には二つの考え方があります。野球の審判を例にとると、その一は、”「ストライク、ボール、ファウル、…」という判定を良心という。”と言う考え方で、もう一つは、”審判員を良心という。”という考え方です。前者の考えは、「第3章 聖書の示す世界観 10.光」の項で述べた、「まことの光」と良心は同一だということになり、後者の考えでは、「良心はまことの光を魂に取り入れる窓である。」と定義していることになります。
 判定を良心という考え方を採用するのは、ハレスビーやコッカーで、ハレスビーは良心を以下のように説明します。「良心とは人間に、道徳律、或いは、神の聖旨に順応していることを知らせる知識、または意識である。」(*40) また、コッカーは「良心とは、善悪についての既知の律法との関連から見た、自己の知識である。」(*41)とします。
 アンドリュウ・マーレーは、良心をこのように説明しています。「良心は、部屋(魂、心)の窓にたとえることができます。それを通して天の光は射し入り、またそこを通して輝きわたる大空をながめまわすことができます。」(*42)。この考えは、良心を魂の機能の一部と見なすもので、良心についての第二の考えに当たります。
 パーカイザー編著、キリスト教信仰の探求(*43)にも、良心について記述されています。そこに聖書の言語解釈、過去の諸説等にも触れられていますが、その解釈は、良心は「…とともに知る」ものであり、「良心とは自覚自体を自覚する特殊意識である。」と定義されていて、第一の考えに当たります。
 ジョン・ウェスレー(*44)は、「良心とは、次のことをなす機能である、すなわち、これによって我ら自身の思い、言葉、行いを直ちに意識させ、それが功か罪か、又それらが善か悪かを意識させ、続いて、これらは称賛と非難の何れに値するかを意識させる。」としています。従ってアンドリュウ・マーレーと同じ第二の考えです。
 良心について触れている聖書の記事を読み比べてみるとき、良心は汚れたり麻痺したりするものであることが分かります。もしも良心を情報や知識であるとすると、情報や知識はそれ自体が汚れたり麻痺したりすることがありませんから、矛盾に陥ります。ですから良心は情報や知識や意識ではなく、魂の一機能であると理解できます。つまり第二の考えをとるべきです。

・良心の機能
 良心は、心の中にある基準に対して、実行した行為が適合しているかどうかの判定をします。
 従って、心の中にある基準自体が誤っていれば、良心は誤った判定をします。
「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」(エレミヤ31:33、ヘブル8:10)救いと、聖潔に与ると、神は心の中の基準を書き換えてくださいます。
 パウロが良心に従って潔い生活をしたことを、「私は今日まで、全くきよい良心をもって神の前に生活してきました。」(使徒23:1)と述べたように、潔い生活には良心に従うことが必要です。
 「彼らの…弱い良心が汚れるのです。」(1コリント8:7)「彼らは良心が麻痺し…」(1テモテ4:2)とあるように、良心は汚れたり、麻痺させられたりするわけですが、これはアンドリュウ・マーレー(*45)の表現を借りて言うならば、心の窓が曇って、善悪の判断をするための光が心のうちに入らなくなることと言えます。良心の働きが機能しなくなるとこうなるということから逆に良心が本来持っている機能が明かになります。

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 この項目については、文献を引用しましたから、出典を載せておきます。

*40:O・ハレスビー、良心、岸千年訳、ルーテル文書協会、1957

*41:コッカー、ヘンリー・シーセン著「組織神学」聖書図書刊行会、1961、p.375から引用

*42:アンドリュウ・マーレー、キリストの御霊、沢村五郎訳、いのちのことば社、初版第6刷、1987、p.200

*43:W・T・パーカイザー編著、基督教信仰の探求、福音文書刊行会発行、
いのちのことば社、1966、p.276、630

*44:ジョン・ウェスレイ、標準説教第四巻「恩寵の手段」、河村襄他訳、
イムマヌエル綜合伝道団出版局、1974、p.48

*45:アンドリュウ・マーレー、キリストの御霊、沢村五郎訳、いのちのことば社、初版第6刷、1987、P.200

(仙台聖泉キリスト教会員)