同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第23回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<4.聖書の示す人間観>

 聖書の示す人間観のテーマとして次の項目を取り上げて検討しています。

今回はその中の
・肉という表現について
・人の誕生
という二つのテーマを取り上げます。

 「肉」という用語は、キリスト教におけるきわめて重要なことばとなっています。その理由は、私たちが救われなければならない重要なテーマに、パウロが「肉」という用語を用いたからです。その用語が、その意味ででてくるのはパウロ書簡であって、福音書にはほとんどでてきません。肉という言葉は、救いの神学的な考察に関わることがらであって、イエス・キリストは救いについて神学的な論は展開されませんでしたから、取り上げなかったのです。
 今私たちは潔めを探求しているのですが、それを理解するために「肉」という表現が何を意味しているのか知っておく必要があります。

もうひとつ「人の誕生」によって新しい人格がこの世に増えるのですが、聖書の示す世界観の章で論じたように、人間が物質の世界と霊の世界の両方に属しているため、人の誕生にはきわめて興味深い内容が含まれています。

以下に、テキスト本文を引用しましょう。

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8.肉という表現について
 肉という表現は、肉体を連想しますが、そうではありません。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」(ローマ8:5)「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、…」(ガラテヤ5:13)「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)以上の三聖句は、肉と御霊の対立が、思考、意志、感情(ここでは喜び)に及び、単に肉体から出てくる欲求などに関することではないことを示しています。
 パウロが、ローマ人への手紙に書いた内容のその思想の流れをみるとき、「…古い人…」(ローマ6:6)「…私たちが肉にあったとき…」(ローマ7:5)「…私のうちに住みついている罪…」(ローマ7:17)「私の肉のうちに善が住んでいない…」(ロー7:18)と表現されていることが、同一の母体を指していることが分かります。すなわち御霊と対立する「肉」とは、私たちの母親から生まれたままの古い人格に付属する罪の性質そのものなのです。
 この肉は救われた人のうちにも残っています。それが聖潔を必要とする理由なのです。

9.人の誕生
 子どもが生まれることは、創造の一部です。「わたし(イエス)の父は今に至るまで働いておられる」(ヨハネ5:17)のです。霊界にも所属する人間が世に生まれ出ることを、神は物質の世界につまり自然界の法則に委ねておられるのは興味深いことです。
 子どもが生まれるとき、父と母の肉体の一部から子どもが造られるのですから、容貌や自然界に属する様々の能力や魂の働き、すなわち性格や欲求の傾向性などが両親に似ることは、当然のこととして理解されます。人はこれを遺伝と呼びます。最近にいたり、DNAの研究が進んで、遺伝の仕組みが少しずつ明らかにされてきています。
 人間の肉体は物質の世界に所属し、父親の体の一部と母親の体の一部から子供が造られることによって親に似た子供が生まれると言うことは分かり易いのですが、霊界に属する部分である霊すなわち人格はどのようにして誕生するのでしょうか。分かっていることは、人格は人間が生まれるときに付与されることです。人間は先在することはなく肉体の誕生と同時に創造されます。
 アブラハムが彼の持ち物すべての十分の一をメルキゼデクに献げたとき、「…レビはまだ父(アブラハム)の腰の中にいた…」(ヘブル7:10)と言う表現は、レビという人格がアブラハムの腰にいたということを言っているのではなく、アブラハムに代表されて、祭司レビの家系はもとよりヘブル民族のすべてがメルキゼデクに十分の一を献げたことになるといっているだけです。
 以下の聖書の個所は肉体の誕生の時に人格が創造されることを支持しています。妊婦を流産させた場合の裁定に、「人が争っていて、みごもった女に突き当たり、流産させるが、殺傷事故がない場合、彼はその女の夫が負わせるだけの罰金を必ず払わなければならない。…しかし、殺傷事故があれば、…」(出エジプト21:22-23)とあり、それは傷害と見なされ殺人とは見なされません。この規定では妊娠時の胎児は、まだ人格であると認めてはいないつまり母親の肉体の一部と見なされているのです。胎児に人格を認めない以上それ依然の細胞に人格は認められないことになります。
 このことは堕胎が殺人であるか否かの結論をも与えています。堕胎は決して望ましいものではないことは論を待ちませんが、それを殺人と考える必要はなく、万一止むを得ない事情で妊娠中絶を行っても神はそれを殺人とは見なされません。
 このことはまた、キリストが地上に来られる際には、処女降誕によらなければならなかった必然性をも示しています。キリストは先在された方で、肉体はマリヤから取られましたが、霊は永遠の神であられるからです。
 当然ですが、佛教徒の信ずる輪廻ということはありません。また人霊がもう一度別の肉体に宿って生まれることもありません。

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 テキスト本文には本来必要のないこと、少し脱線している部分も含まれていますが、要約すると、 子どもが生まれる、ということは新しい人格が創造されているということです。そしてその新しい人格には、親の肉体的特徴も受け継がれますが、潔めの問題を考察するときに決定的に重要なことは、霊的性質が親から子に伝わることです。その霊的性質に、アダム以降すべての人類が受け継いでいる罪の性質、すなわち原罪が含まれていることです。

(仙台聖泉キリスト教会員)