同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第24回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<4.聖書の示す人間観>

 聖書の示す人間観のテーマとして次の項目を取り上げて検討しています。

今回はその中の
・罪と罪の性質について
・罪の性質の遺伝
という二つのテーマを取り上げます。

 アダムは罪を犯し、その心(正しくは「霊=人格」)の内に、罪の性質を持つものとなりました。アダムの子孫はすべて、肉体と共に罪の性質を持つものとなったということが聖書の主張であって、その受け継がれる罪の性質は「原罪」と呼び慣らされています。
 受け継がれるものは「罪の性質」であって、個人が実行してしまう「罪」ではありません。
 イエス・キリストの救いは豊かであって、その力は無限、罪も罪の性質もその救いに与るのですが、罪から救われる道と罪と罪の性質から救われる道は違っています。ですから、それを区別して理解し、各々に対する十字架による救いの道を見いだしてそれに与らなければなりません。
 「結実」の本文に書かれていますが、「罪」は「今」という時間の中でだけ実行できるもので、「罪の性質」は心と霊の「状態」として常時存在するものです。
 罪は赦されるとその後は、それは無かったものと見なされます。罪の性質は潔められると、その後は潔められた状態に生き続けることが許されます。
 罪が赦された時、無かったものとみなされる、という表現は微妙です。無かったとみなされるのは、神との和解の関係において、やがて審きの座に立ったときのことであって、罪を行うとその結果が残るのです。その結果はそれを行った人の生涯の中で損失となるものとなるでしょう。また懲らしめを受けることもあるでしょう。

それでは「結実」の本文を引用しましょう。

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10.罪と罪の性質について
・罪と罪の性質
 人間が罪の性質を持ち、罪を犯すものであることは、アルミニアン・ウェスレアンの信仰者だけでなく、広くカルビン主義者の間にも認められていることです。罪に関するジョン・ウェスレーの定義(46)は明瞭で、「罪とは知られている律法に対する意志的違反である。」とします。
 罪と罪の性質は明確に区分して定義されなければなりません。「キリスト教信仰の探求」に記載されている罪の定義「(ウェスレーの定義に追加し)罪はまた、そのような意志的違反へと導く態度、気質および傾向性など、また後に原罪として論ずるであろうものを含むものである。」(47)や、カルビン派のヘンリー・シーセンの罪の定義「罪は特別な種類の悪である。」「罪は律法を守らなかったり、侵犯したりすることである。」「罪は行為であると同時に、一つの原理また性質である。」「罪の本質は利己主義である。」(48)とすることは、罪と罪の性質の区分が不明瞭で、聖潔の追求者を迷わせる恐れがあります。
 罪は神の命令に違反する「行為」です。「イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。『もう罪を犯してはなりません。…』」(ヨハネ5:14)「イエスは言われた。『…。今からは決して罪を犯してはなりません。』」(ヨハネ8:11)に示されているように、罪は「行い」であって「今」という「時間」の中にあるものです。信仰の場合と同じように、罪は「今」においてしか犯すことができません。昨日に戻って罪を犯すことはできないし、明日の罪を今日犯すこともできません。
 「今」以外のものは、罪の性質や品性、性格、気質などの領域の事柄です。また誘惑も実際に誘惑されるのは「今」以外にはありません。今行為として犯す罪は赦しの対象であり、それ以外が潔めの対象なのです。
 罪には、聖書に記されている「キリストの律法」(Iコリント9:21)(49)への違反と「神がその時点で各人に示される命令」への違反の二種類があります。
 聖書に記されているキリストの律法には、新約の視点で解釈される旧約聖書全体と、キリストが在世中に教えられた教えと、聖霊がおいでになり使徒達に示されたこととが含まれます。例を挙げると「…イエスは言われた。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならい。偽証してはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』…」(マタイ19:18-19)
 また山上の垂訓はじめイエスが教えられた数々の教えの中に、また使徒達やパウロの教えの中に記されています。それには、禁止事項即ち消極面とこのような善きことを行えと命ずる事項すなわち積極面の両方が含まれています。「イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じように大切です。」(マタイ22:37-39)「まことにあなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」(マタイ19:9)「肉の行いは明白であって、つぎのようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党波心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。…こんなことをしている者達が神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5:19-20)「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」(エペソ5:18)などなど枚挙にいとまがありません。現在の社会では、偶像礼拝、酔酒、宴楽はいうに及ばず売買春、姦淫、離婚から同性愛(レビ20:13、ローマ1:26-27)まで「市民権を得た」との表現でそれらが、公然と行われるようになっています。同性愛一つとっても、神は「必ず殺されなければならない。」(レビ20:13)と命令されたものです。私たちは神がお嫌いになることに、敏感でなければなりません。
 大切なことは、これらのことが自分にとって具体的対象となる時と場に遭遇した場合に、禁止事項は拒絶し、善きことは行うことができるかどうかです。
 またこれらの禁止事項とは関係なく、一般的には罪と認められない事柄であっても、神がこうせよと言われることがあります。その場合に、それに従わないと罪になります。以下はそれらの例です。
「そのとき主はアモツの子イザヤに…語られた。『いって、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。』それで、かれはそのように裸になり、はだしで歩いた。」(イザヤ20:2)
「つぎのような主のことばが私(エレミヤ)にあった。『あなたは妻をめとるな。またこの所で、息子や娘を持つな。』」(エレミヤ16:1-2)
「主はホセアに仰せられた。『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。』」(ホセア1:2)
「アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。…』」(ヨナ1:1-2)
 聖潔を求めて生きる新約のキリスト者に、神は同様の特別の命令をされることがあります。それは、聖潔に生きられるか否かを分ける大切な一瞬をその人にもたらします。

・罪と誘惑
 人は自分が罪を犯したと思うと、聖潔の信仰に留まっていることはできません。罪と誘惑の区別を理解できないと、誘惑にあっている段階で罪を犯したと判断することもありえます。すると聖潔の信仰が失われて失望に陥るのです。そのため、自分が罪を犯したのか悪霊の誘惑を受けているのか明確に区分出来る判断力を持たなければなりません。
「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)というイエスの言葉の持っている原則は、姦淫だけでなく、盗みにも、殺人にも、偽証にも、貪欲にも適用されますが、この原則の示している内容を理解しないことが、罪と誘惑の区分を誤らせるのです。前節、10.に述べたように、罪は「行い」であって、その本源は霊と魂の意志決定にあります。ですから、体が実行する前に、それを実行する意志決定がなされます。その意志決定がなされたとき罪を犯したのです。
 姦淫するぞ、盗むぞ、偽るぞ、殺してやる、…と意志決定する以前は誘惑の段階です。
 
・罪と過失
 過失は、ジョン・ウェスレーの罪の定義「罪とは知られている律法に対する意志的違反である。」に対応して、「過失とは、キリストの律法に対する意志しない違反である。」と定義されます。
 過失の原因は、「知らなかったため(無知)」あるいは「誤って(過誤)」行うこと、「能力がないため(無能)」行えなかったことにあります。ジョン・ウェスレー(50)が強調しているように過失もキリストの贖いを必要とすることは言うまでもありません。「また、もし人が罪を犯し、主がするなと命じたすべてのうち一つでも行ったときは、たといそれを知らなくても、罪に定められ、その咎を負う。その人は、羊の群から…雄羊一頭を取って、罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れてくる。祭司は、彼があやまって犯し、しかも自分では知らないでいた過失について、彼のために贖いをする。彼は赦される。」(レビ5:17-18)
 大切なことは、神は罪と過失を区別して取り扱われることです。「あなたがたは、…それをのがれの町とし、あやまって人をうち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。…」(民数記35:10-33)「しかし人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」(出エジプト21:14)「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。」(ルカ12:47-48)
 カルビン主義者達は、この罪と過失の差異を認めることを拒み、「贖いが必要なものはすべて罪である。」とするため、過失がなくなるということはありませんから聖潔を信ずることができず、聖潔に与ることができないのです。

・全的堕落と動機の問題
 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みなともに無益な者となった。善を行う人はいない、ひとりもいない。」(ローマ3:10-12、詩篇14:1-3、詩篇53:1-3)生まれたままの人間は「全的に堕落」したものであることは、カルビン主義者だけでなくアルミニアン・ウェスレアンの立場をとる人々も認めています。カルビン主義者の描く全的堕落の姿は、「(人間の全的堕落とはどのようなものかは)人間をエンパイア・ステート・ビルの頂上から飛び降りて、道路に散らばった人にたとえる。地上にたたきつけられた時、彼の何かが残っていたとしても、彼は自分が助けを必要としていることを知り得ないのである。その人は死んでいる---命がない---それで、回復を望むこともできない。」(51)。
 人間の姿を率直に観察し、聖書が述べていることを全体的に把握するならば、人格を有し、罪に生きている人間がそこにいることがわかります。アベルを殺した後もカインは神と語り(創世記4:1-15)、サタンさえも神と語ります(ヨブ1:6-12、2:1-6)。ですから、前述の死体の例は、聖書が示す全的堕落を現すには、的はずれであるのです。
 人が善を行い得ない原理は、その人の行動の動機が「利己心」以外にない点にあります。「罪の本質は利己主義である。」(52)というのはその意味では当たっています。さらに人は、神の権威に服することを致しません。これが全的堕落の内容です。
(補足:「生まれつきの人はどこを切っても利己心から離れることはない。利己心から離れて自分を神のみこころに渡すことはない。」と表現できます。)
 罪の中心は動機にあります。聖潔において与えられる完全の範囲はそれと対応しており、動機が愛であること、動機が義しいこと、動機が純潔であることに留まります。行為の内容、結果の完全は与えられません。

11.罪の性質の遺伝
 罪の性質の遺伝はどのようにして起きるのでしょうか。
 肉体の両親の形質が子どもに遺伝するのと同様に、霊の形質も遺伝します。そこに創造の不思議があります。そのしくみを説明することはできません。ただ聖書はこう指摘します。「アダムは、…彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。」(創世記5:3)
 潔められた男と潔められた女の間にできた子どもが、なぜ罪の性質をもって生まれるのか、との議論がウェスレーの時にあった(53)ことが、記されています。
その理由は、潔めは神が”後天的”に人間に与えられたもので、整形美男と整形美女の間に醜男が生まれても不思議はないように、後天的に与えられた霊の潔さは、子どもに遺伝せず、先天的に持っていた形質が遺伝するからです。
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文献:
(46)ジョン・ウェスレー、キリスト者の完全、山口徳夫訳、キリスト新聞社、1973、p.67
(47)パーカイザー、基督教信仰の探求、福音文書刊行会発行、いのちのことば社、1966、p.296
(48)ヘンリー・シーセン、「組織神学」聖書図書刊行会、1961、p.399
(49)ジョン・ウェスレー、キリスト者の完全、赤澤元造訳、IGM&WMM出版協会、1952、p.141
(50)ジョン・ウェスレー、前掲846)、p.31、65など
(51)エドウィン・H・パーマ、カルヴィニズムの五特質、鈴木英昭訳、つのぶえ社、1978、p.26
(52)ヘンリー・シーセン、前掲(48)、p.399
(53)ジョン・ウェスレー、前掲(49)、p.95

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(仙台聖泉キリスト教会員)