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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告—80

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 5章
 一連のお話はイスラエルがペリシテと対峙しているところである。こののちサムエルが率いてペリシテと対峙していく。
このところではサムエルの時代を待つ時に神がペリシテを用いてイスラエルを試す機会をもったと考えられる。エリの時代の戦いを見ると整えられていない民の姿がありありとわかる。結果エリの二人の息子も死に、エリもその故に亡くなった。先月話したが、イスラエルは最初の戦いに敗れた時、神の箱を持ってくれば勝てると考えていた。ここに神の箱、神の力を自らの意のままに扱っている民の姿が見られる。こうして行われた戦いは勝てなかったばかりでなく神の箱が奪われてしまうという終わりを迎えた。イスラエルは神に対してどうあるべきか完全にわからなくなっていた。それは神と民との関係が正しく成り立っていなかったゆえである。民は戦いに負けて初めて自らが神から離れていたことに気づいたのである。さてその一方でペリシテはどうなったのか。ペリシテには神の箱を通し、神ご自身がその力をもって様々な災害をもたらした。この時に出た被害を見ると神がいかに偉大な力を持っており、民の力を必要としないほどであるかがわかる。しかし神はそのように自ら働かれすべてを良しとしてしまうのではなく、人間と関わり用いようとしてくださっているのである。

 人間は神を自分の好きなように勝手に解釈し、偶像は作らなくとも、(イスラエルは神の箱を偶像化していたといえる)勝手な神を作り上げてしまう。だからこそ私たちは神との人格的な交わりをしなければならない。では神から離れてしまったとき、この関係を回復することはできないのだろうか、いやそうではない。神はご自身を様々なところに顕現され、弱さから立ち直り、回復していく道を備えてくださるのである。そして自らが神から離れていたことを自覚し、悔い改め、神のもとに立ち返ろうとするとき、神はもう一度その関係を回復してくださるのだ。


Q:良心や親切心が追いやられてしまうという話がなされましたが、そうならないために「確かな信仰を持ち、信仰によって力を与えられるようにする」ということでよろしいのですか。

A:人は神なくとも良心や親切心で互いとの関係を作り上げることができると考えている。しかし、実際は他者よりも自らが優先され、自己顕示や自らの思い通りにいくようにと考えていることのほうが圧倒的に多いのである。良心や親切心がないとは言わないが、信仰者は神によってそれらを導かれ、神の御旨をとらえ、何を行うべきか、本当にすべきことは何かと行動することができるのである。つまり、神の御心がわかるものは、自らよりも他者を優先することができるのである。そこを目指すことが私たちには必要なのである。
また信仰者はこうあるべきだという考えをもち実現しようとする力はお互いに影響を与える。あの人が信仰のゆえに実現の為の努力をしていることを聞いた人は自らもそこに立ちたいと願うのである。


Q:礼拝の中で正しい貸借対照表を持つべきであるという話やそれに関して改ざんしてはならないと話がなされましたが詳しくもう一度教えてください。

  A:私たち信仰者の間で貸し借りがきちんと意識をして行われているかということ。信じて私があなたに何かを行ったときにそれに対して返すという行為が(実際の経済活動ではなく)きちんと行われると恵みをさらに増し加えることができるということを話していたのである。物事、経済はそのように行われているのである。人の好意を受けることはいいが、貸し借りで考えるならば赤字なのである。やってもらうというのは一見いいように見えるが、実際は自らも行って返礼しなければ赤字となってしまうのである。本来は赤黒がなく、互いにやり取りすることができることが必要なのである。しかしそれは返ってこないからやらないということではなく、やったことが違うところから返ってくることもあるのである。そのことを理解できると、自ら相手のために行っていくことや、他から返ってきたことをきちんと計算することができ、またそういうことに長けた人や疎い人をみつけることもできるのである。しかし一方で黒字ばかりがいいわけでもない。この場合の黒字は相手に仕えることである。こればかりを行っていくと疲弊していってしまうのである。また本人はそれに耐えうることができても、そばにいるものが疲弊していってしまうのである。だからこそ、赤字でも黒字でもない、均整がとれたものであるべきである。隣人を愛すると言うことは福音としてそのように私たちが努力して行っていくと、神の報いを実感する瞬間が与えられていく。自らの小さな行いに対しなん倍もある祝福が返ってくるようになるのである。またそれを実現していくことができてくるとそれを見る自らのそばにいるものが神の報いの素晴らしさを知ることができ、神と共にいることを恵みだと考えるようになるのである。
 ある家庭の例を話そう。その夫婦は毎年ディズニーランドに行っていた。旦那さんは絶叫系のアトラクションが好きだったが、奥さんは苦手で全く乗ることができなかった。そのため旦那さんは毎年、奥さんに「あなたの行きたいところに行こう」といって何年かを奥さんに愛をもって接し続けた。今年奥さんは「いつも私の行きたいところばかりいっているから、あなたの行きたいところに行きましょう」といい、更に、それで自分は乗らないというのではなく、あなたを一人で乗せるわけにはいかないと絶叫アトラクションに付き合った。相手に愛をもって仕えることが絶対に乗らないといっていた奥さんの気持ちに変化を起こしたのである。
 礼拝ではアブラハムがイサクをモリヤの山で献げようとしたとき、イサクがなぜそのアブラハムの決定に従うことができたのかを取り上げた。イサクにはこのアブラハムの信仰がきちんと受け継がれていたのである。そして、自らが献げられようとも、そこに神の摂理があることを確信していたのだ。


Q:努力ということがこの間の礼拝で語られましたが、教会内で努力という言葉があまり使われていないことを感じて不思議に思ったのですが、使われないのはなぜですか。

A:努力という言葉は誤解されやすい。神の力でなく、私たちがやったことと考えられやすいからである。逆もまたしかりで、神の力がすべてですというと、自らの力は全くいらないのかととらえられやすいからである。聖書には「努力して狭い門から入りなさい」というイエスキリストの言葉があるとおり、努力の必要性も語っておられるのである。私たちの自由意志によって信じることや選ぶこと、神の御声に聞き従いことを行っていくことができるかということが努力ともいえるのである。誰が見ていなくても神が見ておられることを考え、自らが働いていけば、それが努力となり、神がそこに助力してくださるのだ。


Q:主体性ということを礼拝のメッセージで語られたのですが、主体性をもって目の前にあるものに取り組もうとしたとき、その方法が変わったことに気づいたのですが、それが独りよがりのものとならないためにはどのようなチェックが必要ですか。

A:真相を確かめてみる必要があると思う。相手の考えなどの細かいところに手を触れて、相手のことを考えていくことが必要である。自己中心的になる人の典型は周りの人が見えていない、分析がされていないという状況である。だからこそ、周りを見てみたり、働きかけて反応を見てみたり、観察していくことで周りに関心が持てるようになるのである。例えばプレゼントを贈る際に自分の送りたいもの、自分がいいと思うものをあげる人と、相手の欲しいものを追求してあげる人がいる。もらった側から考えれば後者のほうが嬉しいに決まっている。しかし、そこをあげてみても他者が見えているか否かなのである。だからこそ私たちは相手を観察するとともに、他の人格との交わりの方法、コミュニケーションの方法を考えていくことが必要なのである。そうして豊かにしていくと私たちは主体性をもって行っていきつつも独りよがりにならないものになるのである。


Q:現在信仰がドラマチックでないと信じている実感がしないというクリスチャンの声があることを知りました。そしてボランティアで様々な人に奉仕し、そこで救われることを願う教会が多くあります。しかし私たちの教会は内輪で様々なことを行って身近なものたちの信仰を作り上げる方法を主にとっています。この二つの種類を見たのですがどうお考えですか。

A:それぞれの信仰生活がドラマチックであるかは個人の捉え方による。私にとってはこの教会の若い人たちの救いは十分にドラマチックに見える。それはほかの教会でしているボランティアも同じだととらえられる。どちらがいい、悪いというのではなく、お互いの良さを分かち合い、キリストを証しすることが必要なのである。ドラマチックと感じる要素は相手への訴え方にもよる。話し方や文章の作り方一つであっさり終わる話にも、相手の心に残るすごい話にもなるのである。そういう能力を鍛えることも必要であるし、しかしそれだけにこだわってしまわないようにも注意していかなければならない。


Q:この間、小学校の町探検で教会見学が行われ、そのきっかけになったのは教会の小学3年生の女の子だったととりあげられましたがこれは神が働かれたととらえてよろしいのですか。

A:神がことをなしてくださったということはもちろんだ。しかし、今までなされなかったのが私たちの力不足だったわけではないし、なぜそうならなかったのかその真相は私たちにはわからない。時代が進んだことで宗教の取り扱いに変化が訪れたこともあると感じる。  私は訪問に来た子どもたちに「心に対するアプローチは病院もそうだが宗教がその役割を持っている」と伝えた。しかしその宗教を教わるため町探検に教師が新たに教会を組み込んだとは考えていない。この女の子がいたからこそ教会を担任の教師が組み込む対象としてみたのだろうと考えられる。それでも、学校で友人に「神はいない」といわれた彼女が悲しみのなかで、その出来事を神に祈り続けた時、「町探検という形で神が応えてくださった」と、まだ小学三年生であるのにも関わらずその祝福を数えていることを感謝せずにはいられない。人は「神はいない」といった相手が神を信じたわけでも、謝ったわけでもないのにというかもしれない。しかし彼女はこの出来事を結びつけた。そして大いに喜び、神に感謝したのである。


Q:青年会で神は人の罪をも用いられると語られたのですがどういうことですか。

A:例えば神が罪をあなたに突きつけたとしよう。そうすればあなたはその罪をしり、同じことをしないようにしようと心がけることもあるだろう。それですでに罪が用いられているといえるのである。またその刈り取りの姿を見た人が私も注意しようと考えることもある。ただ罪を放置されないということなのである。そしてさらに私たちの心を罪から救い、悔い改めていくことができるのである。
 善人の罪は多くの人を狂わせ、揺るがされそうになる。しかし、それに揺るがされてしまうのではなく、対峙していかなければならないのである。イエスキリストはペテロに7の70倍許すべきであると語り、その後のたとえ話では1万タラント許してもらった人が100デナリを許せなかったゆえに初めの許しが帳消しにされてしまったと語られていた(マタイ 18:21-35)。私たちは相手に対峙し相手を許し、罪から救う手助けを行っていかなければならないのである。平時で相手の小さな行動に怒っている人は、有事でも人を許すことはできないのである。「その時になったらできます」と人はいうが、実際はできないのである。だからこそ日々の生活の中で心を整え、穏やかにし聖霊に満たされ注意していかなければならない。しかし日々の生活から神に仕え、有事にも対応していくことができるようになると、このような生き方や営み方が世代を積み上げる中で豊かに形成されていく。そしてそれは特に家庭の中で文化となる。そうすると、子どもたちはその環境の中で自らの中にキリスト教文化を形成し、自然と神を信じ行動するようになるのである。もちろん、全く努力が必要ないわけではない。しかし、世代を積み重ねるごとに前の世代で超えるのが困難だった壁をあっさりと超えるようになるのである。私たちはこの文化を家庭に作っていきたく願う。時間はかかるがそれはなんと幸いなことか。

(仙台聖泉キリスト教会会員)