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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—78

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 3章
この聖書個所は教会学校でも語られるようなユーモラスで子どもの中に神がご自身を表すという読む人に特別な姿を見せる物語である。その一方で読みやすくさらっと読んでしまいがちである部分だが、ここには多くのことが語られている。これをどのように読んでいくか、読み解くにはそれができる霊的な力、霊的な営みによって培われる力が必要である。それによって私たちは神からの恵みを受けることができる。神の恵みは全地に雨のように降り注いでいる。しかし、信じる者にはさらなる恵みを豊かにもたらそうと神は考えておられる。恵みは雨のように私たちにあるのだと終わらせてしまうのか。それとも、さらに信仰によって恵みを豊かにしていくのかここが分かれ目である。恵みが豊かに与えられれば分け与えることができる。しかし自分の分のみで分け与えることが出来なければそれで終わってしまうのである。だからこそ霊的な力を霊的な営みによって培っていかなければならない。この力を増し加えることは神の深き恵みを愛する者へ提供することとなり、それによって愛する者とともにその信仰を喜ぶ機会が与えられ、信仰を次の世代へと継承していく大切な鍵となっていくのである。

この当時のイスラエルには主の言葉はまれにしかなく、主の姿が現されないままイスラエルは進んでいかなければならなかった。それは人々が生きることに忙しくそこに夢中になり、神の姿を追い求めることができなかったからである。神は求めるものに姿を現さない方ではない。ここからイスラエルの当時の神との距離がうかがえる。
サムエルは乳離れしてからすぐエリの下で育てられたにもかかわらず、神に三度も呼ばれているのにそのことに気づくことがなかった。それはエリも含めて神と交わりを持ったものを見ていなかったからである。神の身元に仕えているとはいえ、霊性が養われているとは言えなかった。神の存在が蔑ろにされ、希薄化していたのである。私たちはどのように神の存在、教会での姿勢を子どもに教えるのか。
神はサムエルに恩師であるエリの裁きを滾々(こんこん)と伝えておられる。そこに神を恐れ、使えることが形作られる。この時代は指導者ですら整わず、神の言葉も幻もなかった。だからこそ神の戦いの中に私たちが身を投じることができるか、人間にすぎなくとも神に意志していくことができるか、低迷してしまい自らの問題に雁字搦めで手一杯になってしまわないように自らを生かしていくことができるかということが強く求められたのである。
神に仕えることにサムエルの意思はなかった。しかしどんどんと神の御手の中に抱かれて育ち、彼は神の働きを務めるようになった。それは彼がその道に生きようとしたことも勿論ではあるが神が支え、神の働き人として用いられたからである。
私たちがそうして神の召しに仕え、応えようと生きていくことはそのまま神もそのように私たちを扱ってくださる。私たちの言葉は地に一つも落とされない。こうなると信じたこと言葉にしたことが形になっていったのである。神がそのように扱ってくださるのである。
サムエルから告げられた神の言葉を聞きエリは喜んだだろうと私は考えるのである。決して伝えられている内容は喜ばしいことではない。しかしそれでも何も告げられずにことが終わるのではなく、直接ではなくとも神が自らに向けて語られ、扱ってくださったということをエリが感じることができたと考えるからである。


Q:3章の中で冒頭では「主の言葉はまれにしかなく」と書かれ、最後には「彼の言葉は地に一つも落とされなかった」と書かれていますが、サムエルが神の言葉が語られるようになったきっかけとなったのですか。

A:サムエルがきっかけとなり、豊かに神が語られるようになった。今までは神の言葉が語られるような状況に民がなっていなかったのである。しかし状況が変わったからと言ってすべてよくなったかといわれればそうでもない。豊かに語られるようになってもそれをすべて実行していくことができたというわけではないからである。しかしその中でも神との距離を縮め、神に近づいていくことができた者たちも多くいたのである。 神との距離感が開いてしまうことが逆に神に近づくきっかけになっていくことはよくある。神が距離をおかれたとき「いやです」と感じ、縋る(すがる)ことができるか。それともむしろ責められなくてよかったと感じ終わらせてしまうのか。そこに差が生じるのである。 サムエルによって神の言葉が豊かに語られるようになったとき、民は神の計らいをしり、神に近づこうとするか、しないかが分けられたのである。 神の恵みはただ降ってくるものではない。日本のキリスト教は生活が豊かになったことで二世を生み出すということよりも、学歴や世の中での働きに躍起になり、子どもたちをとられてしまった。それによって彼らは宗教に結びつかず、第二次世界大戦後苦しい中から救われた人々の信仰が続いていかなかったのである。 サムエルは預言者として豊かに働いたが、それに聞き従い生きることができた民のみが救いへと導かれていったのである。


Q:エリはサムエルによって神から罪に定められると気づいていたのですか。

A:サムエルが語らなかったということから何かがあることは気づいていただろう。また老預言者として何かを感じただろうと考える。ここでエリはきちんと裁かれ、神の決定がサムエルによって下された。以前罪への警告がなされたのにもかかわらず行わなかった事実を罪だと明らかにされたのである。教師や長と呼ばれるもの、責任のある者にはその務めを果たさなかったときに神が厳しく扱われることを注意していかなければならない。 悪いことをしている人間は急に神の声が聞こえると自らが責められるのではと考えるがサムエルにはそれがなかった。それは先ほど語った霊性が鍛えられていなかったという事実の一方でそれでも神の近くには置かれていたという、罪や悪い行いが放置されなかった、処理されていたという事実の現れである。親はそのような環境に子どもを出していく必要がある。神の近くに子どもを置いておきたいと夢中になってできることを幸いととるか、それとも面倒だととるかが親にも迫られているのである。 神はすぐに裁かれる方ではない。しかし、それを放置する方でもない。神は愛だ、だからどんな自らでもよいと考える人間がいる。しかしそうではない。本来の神は、愛ゆえに悪いこと、罪を裁かれる方なのである。


Q:18節で「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」と語っているなかにエリはその受け入れがたい事実を受け入れたと感じました。そんな信仰を持っていながら子どもたちの罪を是正することができなかった要因は何だったのですか。

Aそれは個々に答えがある。だからこそ私たちはそのようなことがおこりうることを恐れなければならない。小さいことから始まっていく。それは本当に小さいブレである。大きく外れれば誰でも直していくものである。しかし気を付けていかなければならないのは本当に小さな問題なのである。それに気をつけなければその後起こりうる問題を甘んじて受けなければならない。それは侮りが生むのである。 私たちは取り返しのつかない事態へと発展したときにその結果を受け入れなければならない。時にはそこでもう一度悔い改めて生きていくことができる場合もある。 しかし悔い改めてどうにかなるものではなくなる場合がある。それは愛する者が神の道を外れてしまうことである。愛しているなら侮ってはいけないとしていけるか。小さな問題が大きいものへとなってしまうことを恐れなければならない。自らのことを優先して侮って、愛を実行できなければ、それは愛していると口だけで言っているのである。愛は実行されていかなければならない。それが子どもの姿へと現れるのである。決して完璧にできるものではないが、そこに真実に積み重ねておこなっていくことが大切なのである。はじめは大変に思うかもしれない。しかし若い体力や気力のあるうちにそのように子どもと関わることでそれは年月が過ぎると自然とできるようになっていくのである。 私はあるアメリカのゴルフのメジャープレーヤーの話をニュースで読んだ。彼はメジャー4大会のうち全米オープンのみ未勝利で史上6人目の「生涯グランドスラム」を目指していた人物だった。そのニュースでは出れば絶対に優勝できるとまでいわれた全米オープンであったのに選手権を棄権したということが言われていた。彼が棄権した理由は何であったのか。それは娘の卒業式に出るためだった。彼にとって大会より、娘が大切だったのである。これは宗教ではなく価値観の話ではあるが、愛するとはそういうことなのである。


Q:サムエル記では神がサムエルを何度も呼ぶ表記があるが、聖書には繰り返して問答をする表記が多くあると感じますが、そこには何らかの意図があるのですか。

A:私はこの表記に生々しさを感じる。現場に何があったのかどんな感情があったのか感じられるものがある。例えばペテロとイエスキリストの「あなたは私を愛しますか」というやり取りもそうであるが、「…と三回言いました」と書けばいいかもしれない。しかし、そこにはリアルに感じられるものがない。実際にどれだけ人格同士のやり取りが行われたかが現されているのである。神の愛がこのようなところにも表れているのだと感じるのである。


Q:エリの老いの事実や言葉、幻の有無が書かれているが、老いによって神との関係の距離感は開いてしまうものですか。

A:老い、衰えは一つの言い訳だ。老いても変わらずに神と対峙していくこと、それは霊的な営み、祈りや聖書を読むことでできる。エリが3度目になるまで気づかなかったのは神との距離が完全に離れていたことにある。エリが普段から神と関係を持っていればサムエルはその様子から気づくことができただろう。この教会の老牧師である光明師は声を張り上げて朝祈っている。そこには老いによって神との距離を開けてしまう姿は決して感じられない。老いを言い訳にしてしまうことは簡単であるが、そうではなく神との距離をしっかりと日々の営みの中で近く保っていくことが大切なのである。 またそれとは違う方法だが、私たちがきちんと愛する者にその信仰を継承していくことができたなら、そのものに自らのことをゆだねることができる。自らの子や孫が私たちの老いによって離れてしまうかもしれない神との距離を埋めてくれるのである。


Q:先週の礼拝で子どもに献金をさせることが出ていましたが。私はこの間の礼拝で寝入っていた子どもに起こしてまで献金をさせませんでした。しかし夫は集会が終わってすぐその子を起こして献金をさせました。この問題にどのように取り組んでいくべきでしょうか。

A:その子の問題として考えるならまだ年齢的に大丈夫。しかし、親の信仰の覚悟に関する問題として考えるならば、お互いのすれ違っていることや考えを聞きあい、話し合うことが必要である。それによってご主人のほうが決意していることは何だろうかと取り組んでいくことができ、相手の真意をとらえていくことができるのである。ともに本気になって考えをぶつけ合うことで考え方のすり合わせを行えるのだ。子どもの問題はこれからもたくさん出てくる。しかしその中で考えを話し合い突き詰めていくことでお互いがお互いの姿を注意しあい、先ほどの話にも出ていたが子どもの愛し方やそのことで選択を誤ることがなくなってくる。そして愛する者を手放すようなことにならなくなるのである。しかしここで、お互いがきちんと話もせず、いい加減にしてしまっていると、お互いが注意しあっても相手の言葉を受け入れることもできなくなってしまい、子どもへその影響が出てくるのである。お互いの注意の言葉をいやいや受け入れている姿やいい加減に扱っている姿、ましてや言い合っている姿は子どもにとてつもない悪影響をもたらす。だからこそしっかりと相手を尊重し、信頼し話を聞きあう姿勢が大切なのである。 。

(仙台聖泉キリスト教会会員)