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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—77

sakisan

山本 咲

「エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。 エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。
・・・
・・・
シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。 ・・・。」・・・
・・・
エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」
(サムエル記Ⅰ 1:1-18)

サムエル記Ⅰ 1章

サムエル記は歴史書でありながら預言書でもあるという不思議な書である。
神の豊かなみ旨と多くの人格がどのように歩んだのかが書かれている。
ここでこの人格を通し神はその姿を現している。
サムエル記は多彩な人格を通して神という方をとらえ、どのような方であるのか考えることができる。
提供されている情報をとらえ、御言葉を読みつつ、簡単に見つけたところを抜き出して自分の好きなようにとらえてしまうのではなく、聖書に語られている真理と御言葉を合わせてとらえる必要がある。
そうして御言葉に生き、実践していくと確かな成果をあげることができる。
そして、それは他者に分け与えることができるものになり、分けられたものはその恵みに生きるだけでなく、分け与えてくれたものにどうしてその恵みが与えられたのか聞くようになる。これが信仰を伝えることにつながっていくのである。

この書でハンナは祈ることで神に近づこうとした。形だけの祈りではなく、心からの求めをもち祈った。
彼女の祈りの営みが彼女を変え、「与えてください」だけでなく、「与えられた子をささげます」と、神が与えてくださる人格であると子どもを捉えることができた。
サムエル自身の決定もあるが、それ以前に彼女と神の間で神へこの子どもの人生をささげることを約束した。
この家庭においてこの問題は一種の混乱を巻き起こしていましたが彼女が信仰によって変えられたことで、彼女によってもう一度立て直された。
彼女は祈りから自らの人生を取り戻し、彼女の信仰が彼女を生かすものになった。
彼女はサムエルという人格をともに生きることはできなかったが遠くから神とともに歩むその姿を見ることができた。
人格が与えられたから変わったのではなく神との契約と決意をすることができたから彼女は変えられたのである。信じた瞬間に私たちは変えられる。
私たちは物事が変わったら、結果が与えられたらと望みがちである。しかし、信仰によって私たちは結果を与えられることで変えられるのではなく、神との前に契約をもって決意することで、変えられていくことが大切なのである。



Q:話の中で信仰は結果論ではなく、信じ、決意をすることが信仰であると語られましたが、説教で語られているアブラハムがイサクをささげるところも同じだと感じられたのですが。

A:人格と神しか知りえない、神との契約は神とその人にしかわからない。結果として明らかになるものではない。しかし、共に生きるものには明らかな違いとして見えてくる。ハンナはあるところまであてつけていた事実が書かれている。ペニンナはハンナが子を宿すことができなかったからエルカナが迎えた女性である。しかしそれが混乱を起こしたのも事実である。エルカナの決意は最終的に家の後継者であったが、ハンナは最終的に変えられ信仰によって決意し、神へ仕える働き人を生み出すことができた。
ルツとオルパも同じである。ナオミによって別れを告げられる前に、ルツには決意があった。私たちの決意は神が動かされるものであり、しかしその一方で決意ではなく従う必要があるときにはそのように心を動かされるのである。



Q:礼拝の中でイサクがささげられるところの時にイサクのための準備もされていたと語られていたことやサラは知っていて送り出したのではないかということなどを含め、アブラハムはすべてを見越していたのかですか。

A:アブラハムがそうであったか、サラがどうであったかという問題ではない。創世記22章で神が語っている言葉の中にあるように(「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。…」)アブラハムにとってイサクは愛し、大切にしている存在であったと神は知っている。そのうえでアブラハムにささげなさいと言っているのである。アブラハムはその言葉からすべてがわかった。だからこそその言葉に間違いはないのだと確信することができたのである。アブラハムは「あなたは私の前を歩み、全き者であれ。」(創世記17章1節)の言葉に語られているとおり神を知り、神の言葉に忠実である必要があった。そしてその言葉に従って行ったことで、イサクはささげられるときに静かにその所にあった事実があり、最後には神ご自身が止められた事実があった。これはアブラハムが神に忠実であったからこそである。
宗教自体が崇高であっても私たちがはき違えたらすぐご利益宗教になってしまう。だからこそ私たちが本当にそこに決意し、契約をして、神のみ旨に忠実にあることが大切であり、そこにこそ神の恵みが現れるのである。



Q:神の価値観とずれていることがメッセージの中で示され、神との関係を深め、神を知らなければならないとは感じるのですが、神とのお約束をしていても詰めのところで自分の思いが出てきてしまうことがあります。メッセージにもそうありたいと思いますが、現実に行うことができていないと感じるのですが。

A:アブラハムの信仰のポイントはイサクに告げられ残され、それがイサクからヤコブに、ヨセフには伝説の中で伝わっている。同じように私たちも最終的に受けた側が私たちの信仰をどのように語るかが信仰の姿なのである。私の信仰をこう伝えて頂戴と望むのではなく、私たちの信仰を知った人が語る言葉が、私たちの最終的な信仰を表すものなのである。
昔ある姉妹の家庭で近隣の人を集め、家庭集会を行っていた。あるとき集会を終えた後のお茶でそこまで静かにしていた私の娘に姉妹はホールケーキを用意していたことがあった。姉妹は「食べたいところでストップと言ってね」と言ったが、娘はいつまでたっても止めず、「全部食べたいの?」という姉妹の言葉に「うん」と答えた。姉妹は微笑みながら娘に「いいわよ」というと裏からもう一つケーキを持ってきた。このことは娘の中に強い印象とともに残っている。それは同時に姉妹がいかにこの集会を思い信仰をもって主体的にこのことを行っていたか、小さな娘の存在をも大切に、この場に集うこの小さな魂にもと。娘はこのことを通し姉妹の信仰を語るだろうし、娘の中に強く残るだろう。
あなたの信仰の姿、事実はどうなのかはその時までわからない。不十分なところを不十分と思い、戦うのか、それとも棚上げしてしまうのか。それはきっとその姿を見ていた人から信仰の姿が語られる。不十分でもあなたがどのように思って戦うのか忠実であろうとするかが大切なのである。



Q:自らを客観的に判断するとは、具体的に知りたいのですが。

A:客観的に判断するとは、まず自分を卑下しない。「俺って駄目だな」でなく「何がだめで、ここをなおさなければならない」と分析していくことが客観的に判断することである。いいことも同じである。自分を正しく評価し、うぬぼれることもなく、しかし一方で、自分ができることを求められたなら、「はいできます」ということができることが必要である。自分で自分を分析し、さらに他者からの評価を聞き、いいところも、悪いところも見直し、いいところは他者にその力を提供できるようにし、悪いところは直し、必要なら助けを求めることが大切である。こうして協力することで、力が増し加えられて効率の良いものとなっていく。そして私たちはそれを豊かに、恵みとして得ることができるのである。信仰者とそうして互いに行っていくことはもちろん、信仰を持っていない他者と行うことでも生きてくる。そして生まれた利益、恵みをまた様々な場所で生かすこともできるようになるのである。



Q:ハンナの決意の動機はどこにあったのですか。

A:ハンナは宮で祈ったことで、いままでのエルカナやペニンナという世界から一度離れ、神の前にもう一度自らを差し出し、神の手にゆだね、神のみ旨ならばこの先がどのような結果になっても「それで良しとします」と決意することができたのである。だからきっとこの先子どもが与えられなくてもハンナは今までのような心のままエルカナやペニンナと生きることはないでしょう。事実ハンナに与えられたサムエルはエルカナの後を継ぐことも、ハンナのそばで共に生きることもなかった。しかし神に仕える預言者となったのである。



Q:神は女性だからと言ってその役割を与えないということではなく、女性にも役割を与えているという話を聞きましたが、社会的に女性の地位についていろいろな見解が述べられていますが、それは本質的にその地位にあるものなのですか、それとも違うのですか。

A:神が創造されたときには不備なく良い存在であった。しかしそこに罪が入ってきて、その本質がよいものにも悪いものにもなるようになった。あなたがあなたとしてどのように信仰をもって生きていくのか、周りの人の生き方を見て、そこから学びつつ、どのように生きたいと考えるのかが大切になる。

(仙台聖泉キリスト教会会員)