同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

質問してみよう「聖書を学ぶ会」—79

saki-san

山本 咲


サムエル記Ⅰ 4章
 この4章を読むとこの時点ではまだ民が神の言葉を聞くことができていないような状態にあることがわかる。
「なぜ主は我々を打たれたのだろう」という言葉にイスラエルの宗教性を見ることができる。
しかし、その一方で、神の御業の前にへりくだって生きるのではなく、ただ神の箱を持ってくれば、神さえ動いてくれればというような神の存在、その力を知っていながら本当の意味で知らず、そのゆえに侮りの心を持っていた事実がわかる。
だからこそ神はイスラエルの民に戦いに敗れるだけでなく、疫病をももたらしたのである。

エリの二人の息子はこの出来事の中で死に、エリはその訃報を聞き、ショックによって亡くなった。
私たちは神の存在を信じるとともに、恐れをもって歩んでいかなければならないのである。
 私たちは注意しなければならない。
イエスキリストの愛も、救いも、この神の箱と同じように自分の都合のいいように扱っていると、私たちも刈り取らなければならないということを。


Q:箴言3章4節に「神と人との前に好意と聡明を得よ。」と書いてあるのですが「神」にだけでなく「人」が強調されているのはなぜですか。

A:私たちは人間に愛される必要がある。それは媚びることではなく、信仰生活を生きる中で得られる愛というものを大切にしていかなければならないのだ。私たちはこの世と調子を合わせて人の好意を得るのではなく、信仰生活を生きながら愛を得るべきである。 昔は「勉強ができないでお証しも、何も、ないですよね」と言って教会より勉強を優先していた人たちもいた。「優秀な学校を出ているほうがいい」というようなステータスに目移りしてそちらを優先してしまったのである。しかし事実はそのような世の中のステータスは必要ないのである。必要なことは神を第一とし、教会を近くに置いておくことなのである。しかしそれで人をどうでもいいとしてはいけない。私たちは信仰を全うすることで、世の中にも仕え、人を神のゆえに愛することが必要なのである。 私たちは愛すると言っておきながら、人や状況に応じて変えることがある。しかしそれではいけない。優先順位をきちんと決め、その場その場ではなく、基準をもって行動し、愛を全うしなければならないのである。


Q:神は人の背後におられると先生は以前語られましたが、私はそれを人と接する中で感じることがあり、関わり方を大切にするようにしています。そのような解釈でよろしいのでしょうか。

A:そのとおりである。その考え方は私たちが生きる方法論である。現在、聖書知識や宗教の営みなどに対する信仰書が溢れている。しかし大切なことは、知識だけではなく、それを生活の中に用いていくことができるかということなのである。 野球のバットの選び方、打ち方、練習の仕方は知っていても、それで実際打てなければ意味がないのだ。宗教も同じで、生活の中でどのように生かしていくか、生活に密着していくか、むらをなくしていくか、ということが大切なのである。理屈だけでなく方法論を学んでいかなければならないのである。だからこそ「わかっているのですができないんです」という人たちが一番大変なのだ。


Q:ダビデはバテ・シェバとの間に姦淫の罪を犯し、さらに彼女の夫であったウリヤを策略によって殺したことで罪に定められ、その後ナタンを通して神から「生まれた一番初めの子は死ななければならない」と告げられました。実際にはじめの子どもは亡くなりましたが、バテ・シェバによりソロモンが生まれました。(サムエル記Ⅱ 11-12章)そこには神の配剤があったと考えていいのですか。

A:神はダビデとバテ・シェバとの問題を彼のそばに置き、ウリヤを殺した事実を赦しつつも忘れず、そこを乗り越え、進むことができるようにしているのである。
ソロモンが生まれた後でさえバテ・シェバの称号は最後まで「ウリヤの妻バテ・シェバ」と書かれている。そこにはウリヤの存在とともにダビデにその罪を突きつけ、私たちの罪は赦されるが付きまとう事実を語っているのである。だからこそ私たちにはイエスキリストの贖いが必要だったのである。自らの罪、悪しきを忘れずに注意しておかなければいけないのである。ダビデはこの後の人生すべてにこの問題が付きまとっていた。しかし彼はその中で神を信じ自らを戒め生きていったのである。


Q:サムエル記Ⅰ 4章10節で「こうしてペリシテ人は戦ったので、イスラエルは打ち負かされ、各々自分たちの天幕に逃げた。その時非常に激しい疫病が起こり…」と書いてありますが、神はそこにダメ押しをしているのですか。

A:ダメ押しをしたという事実よりも、神がイスラエルの考えをそのままにせず、きちんと罪を裁かれたという事実として受け取るべきである。このことによってイスラエルはただサムエルに代替えしてよくなったというのではなく、きちんと一度打たれ、それによってかわっていったのである。 私たちがこの聖書から学ぶのは自分の行いはすべて刈り取りを行わなければならないということである。状況に甘んじて、危機管理などを怠っていると刈り取りを行わなければならない状況になってしまう可能性がある。だからこそ、私たちは信仰によって自らの行動を律し、御言葉から自らの生活を改め、自らの問題に注意を払っていく必要があるのである。


Q:「敬虔の劣化」を防ぐには環境が必要であると礼拝で話がなされていましたが、劣化や必要な環境とはどういうことですか。

A:「敬虔」に「劣化」という言葉を私が当てたのは、敬虔を獲得した後にそれをどのように維持できるかということを考えるためである。私たちはどのように敬虔を補強していくか、環境、(例えば「自分の弱さにテコ入れしてくれる人をそばに置く」こと)を整えることで敬虔を補強し、弱くなっていかないように対応していくべきである。エリからサムエルに代わったときも、イスラエルは「緩さがあったエリ」から「きっちり固められたサムエル」になり、戸惑いの中にあったと考えられる。しかしサムエルが率い、神がともにあった戦いは勝っていくことができた。そのことから民も神をそばに置くべきであり、この環境が必要だったことに気づくことができたのである。彼らの環境がここで整えられたことによって、指導者の手が末端にまで入るようになり、敬虔を取り戻すとともに、維持し変わることができたのである。だからこそ私たちはそばにそのような人を置き敬虔を維持し保っていくことが必要なのである。


Q:集会の中で以前「愛を全うするのは方法である」という話を聞いたのですが、たくさんの方法を試しながら、行っていくことが大切なのですよね。

A:その通りである。失敗を恐れずに戦っていくことが大切だ。そしてなにより愛を全うしようと行動していくこと、探していくことが大切なのである。そこには愛を全うする相手にも「あの人は何かをしようとしてくれている」という印象を与え、そこに事が起こらなくても「ただ何もしないで待たされている」とは思われないのである。それは相手の待ってくれる時間に影響するのである。


ひとつ前の問題に付属する内容であるが、一つ話をしたい。私は牧会者として牧会をしていくうえで教会に通う子どもたちの進学や就職にまで関わっている。私は他人からすれば「その子どもの進学の自由を奪うのか」というような助言をすることがある。
しかしそれは、その子どもの信仰を守りたいと思うが故であり、それが牧会だと考えるからである。というのも子どもたちが「こうしたい」と提示してきた内容はいかにも神の道から外れ、信仰を捨て去ってしまうような道であることが多々あるからなのだ。
それに気づいていながらその道を正そうとしないというのでは牧会の意味がないし、ただ上面をなぞる話をするだけなら牧師は必要ないと私は考えるのである。
しかし、ただ正論をいうだけでは子どもたちはその助言を受け入れたりはしない。
子どもたちを幼い時から真実に愛し、関わり、子どもたちが助けを求めている時、悩んでいる時には助言をし、それが実ることも教えながら大切な関係を作り続けていく必要がある。
それによって子どもたちは牧会を受け入れ、牧師の話を聞き、神の導きや救いを受けて、信仰を持ち続けるのである。
また、それだけでは終わらず、彼らはこの教会で神のため、教会のために何ができるか考え、その中で生き、神の導きを証する。
なんと幸いなことだろう。だからこそ私は牧会者とはそうあるべきであると考え、私自身そのような牧会をし続けていきたいのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)