同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— イエスはなぜ人の世に来られたのか —


「「アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
(創世記 22:10-12)

 聖書にあるこのような記事に、神はどのようなお方なのであろうか?と興味がわかないでしょうか。私たちは、神は「全知」「全能」、「不変」、「遍在」、「永遠」・・なお方と信じています。すると、神はアブラハムを試さなくても、彼の実態をご存じなのではあるまいか?と考えるのは至極当然です。

 ソドムとゴモラを滅ぼす前に神はアブラハム現れ、こう言われた記事があります。
そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」」(創世記 18:20-21)
神は人の姿をとってロトのところに行き、ソドムとゴモラの実際の姿を観察されました。ここでもアブラハムの場合とおなじことが言えます。

 イエスがこの世に人となっておいでになった理由は、
十字架による人の罪の贖いをすること、
「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」
(ヘブル 9:26)
 天に帰られた後、大祭司のつとめをされること、
「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
(ヘブル 2:17-18)
であることは明白です。

 この世にあられたとき、弟子を育成されて、ご自分のこころを彼らに示されました。
 また、聖霊がイエスに内住されて、在世中のイエスを導かれ、同時にイエスのこころを、聖霊ご自身が体験されたのでした。そしてイエスのこころを知った聖霊が、イエスによって弟子たちに注がれ、弟子たちにイエスのこころを示したのです。

 前述のアブラハムの記事、ソドムの記事の視点で、イエスの来臨・・ご降誕・・を考えるとき、「人間を、その実態を、見てこよう」となされた、といえるでしょう。
 先月号に「費えを払って神に近づく」という内容を書きましたが、本当に費えを払ったか、神はそれをご覧になるのだと言えます。アブラハムは自分の愛するもの、最愛のものをその費えにしました。  私たちは東の博士たちと書かれているひとたちのイエスにお会いするために払った費えを考えます。その歳月、その費用、その労苦を。そして彼らは、
「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(マタイ 2:9-11)
星を見て喜んだと表現されていますが、もちろん彼らは星によってイエスに会えることを確信して喜んだのです。
 ソドムの人々について、神はその「悪」をご覧になりました。アブラハムには、「神を畏れる」ということをご覧になりました。
神は私たち一人一人について、お確かめになる事柄をお持ちです。
神がご覧になるとき、神にアブラハムと同じように言っていただけるものでありましょう。