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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—77

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 2章
この時代のイスラエルは神にかわり祭司が民を導いていたが、この時エリの子どもによって民が乱されていた。
エリの家はイスラエルの宗教を仕切る祭司の家として、時とともに次の世代に継いでいくための備え、準備が必要だった。信仰の継承という問題をとらえ、どのように未来を立て上げていくのか、継承していく流れを作らなければならなかったのである。
旧約では、イスラエルにどのように神がかかわられ、恵みへと変えられていったのか、様々な人々の神の関わった人生を教えている。
神のメッセージをどのようにとらえ、知り、神とはどのような方で、私たちはどのようにして生きていくのか。
どのように生きることが自分のみの利益だけではなく、共に生きるものを巻き込むほどの恵みへとなっていくのか語られているのである。
神に対してどのように生きるのかが大切なのである。
そしてその信仰を継承していくことが出来るのか。
自らの愛する魂に行っていけるかが私たちの取り組むべき大切な問題なのである。
これは急にできるものではない。
そのため時間をかけて日々の中で行っていくことが大切なのである。
このことは最終的に結果として現れる。嘆いて終わるのか、それとも継承して愛するものと共に過ごすことができるかである。
サムエルをささげたハンナはどうなったのか、主が顧みてくださり、三人の息子と二人の娘を与えられた。神は約束通り祝福を何代にも、何倍にもかえ報いてくださる。


Q:礼拝のメッセージの中で信仰の飛躍ということが語られたが、飛躍をしようと考えるときに恐れなどの感情からそこに至らないと感じています。どのようにすればよいでしょう。
A:信仰の飛躍を行っていくためには自分が恐れていることを神に告白し、正直に祈り、その問題を掘り下げていきながら、自らがどのようにことを行っていくのかを決定していくことが大切なのである。恐れを取り去ってくださるように祈ることや、必要だと感じるならば悔い改めを行っていくことなども。時にはもう一度その飛躍の必要性に戻って、本当に必要なのか、自分が勝手に必要だと思っているだけではないのか、と考え直すことも重要なのである。自らの勝手や自己満足で行おうとする飛躍は困難が続くと容易にはあきらめてしまうのであるが、その一方で、自らの愛する隣人のためにする飛躍は簡単にあきらめが付くものではない。これこそが本当に必要な信仰の飛躍なのである。

Q:12節に「主を知らず」と書いてありますが、エリの息子でも主に出会う機会がなかったのですか。
A:エリが教え損ねたのである。しかしエリにはその一方でサムエルは育てられたという事実もある。それは神がエリに与えた祝福である。エリの神と民に生涯仕えた豊かな働きに対して神がサムエルを与えたことでその信仰の継承を行うことができたのである。ではエリが、自らの子を御せなかったのは、手遅れになってしまったのは、なぜだろうか。「悪さ」には小さいものからどんどんと進行していく怖さがある。だからこそ小さな「悪さ」を見逃さず制していく必要がある。しかしエリは自らの子にはそれを行っていくことができなかった。だからこそ子どもたちは滅びへと向かっていったのである。私たちはまだ幼い子の小さな悪さだからと侮らないで恐れをもって対峙していかなければならない。加えて権威が与えられた者の陥りやすい孤独と偏りが悲しい結果を招いてしまった一例でもある。

Q:エルカナとエリをみていて、エルカナは前に出てこない印象があり、エリは前に立って導いている印象があります。しかし結果として、エリの子どもは神を知らず、エルカナの子どもであるサムエルは神に出会いました。ここに私は父親だけでなく、母親、女性の決定に力があるように感じるのですが。
A:父親と母親の担っている責任は違う。欠けがあっても補い合える部分はあるが、夫婦が互いにそのことを理解しているからこそである。神はそのことを真実にお互いが行っているならば豊かに報いてくださる。しかしそこにいつの間にか邪気が入ることが問題である。夫婦が互いに仕えあうことができるか、邪気が入り、あてつけやかたきをとる様な行動をしていないかが問われ、それはいずれ子どもの姿によって裁かれる。邪気が子どもに与える影響は大きいのである。夫婦が一心同体になると聖書では語られているが他人ではない存在になるという営みは大きい。夫婦の中に邪気が入ってしまったならば、神の前にでて悔い改め、対処していかなければならない。いずれ放置された邪気が悪に代わるのである。怠惰も悪を生み出す材料になる。神を信じ侮らずに、自らの不足を真実にはばかることが求められているのである。いずれにしても夫婦生活の中で愛を育んでいく、結びついていくという理屈はわかっていても行えなければ問題は決して解決しないのである。だからこそ夫婦は互いの役割分担を誠実に行いつつ、互いに尊敬しあい、必要なら互いが補うことでこそ成り立っていくのである。
神の前に正しく聖く生きるということを私たちが意識していくことで、これらの問題を含め、足りるものとなり、満たされ、神の前にお互い夫婦として生きていくことができるのである。

Q:エリの子どもたちが、エリの足らなさのゆえにそのように育っただろうという事実はあるのですが、聖書に子どもたちがそうなった過程が書かれていません。私たちはどのように読むべきなのですか。問題を考え対策を学ぶということですか。
A:旧約聖書は神という方がどのように考えられるか、神の御旨がどのようなものであるかということ、そしてその御旨に歩んだ人々、歩まなかった人々の結果がよく語られている。
これは人間が神の御旨を自分勝手に解釈して自分のいいようにとらえてしまいやすいからである。エリは御旨を知っていたが行使していくことができなかった。エリが求められていたのはまず自らを神の御旨に沿わせ、そこから愛する者へと教えていくことだった。
私たちは愛する者に教える際には寛容をもって見守っていく一方で必要な時にはその行動を止められるということが必要である。そのためには、よく観察をして、その人に必要な時に必要なタイミングで出せるか、教えていけるかがポイントになってくる。これは容易ではないが、そうして行っていく信仰の継承は前の世代で躍起になって取り組んだ問題を次の世代で当たり前に乗り越えていくことができるようになるのである。

Q:礼拝の説教の中で語られたところですが創世記22章2節
ここから神がただイサクをささげなさいと述べたのではなく、「愛する」や「独り子」と語られたことからアブラハムは神がすべてをご存じでありながらささげなさいと言われていると捉えることができ、御旨を行うことができたということが語られましたが。
A:神の御言葉が重要。感覚で人間はごまかされやすいが、正しく神が言われているとおりに神の言葉をとらえていかなければならない。私たちが聖書の御言葉にどのように仕えていくのか、自分をその中に生かしていけるかである。教会では生活と御言葉が結びついていくように語られ導かれる。未熟な時に無理に言葉だけを覚えるのではなく、信仰生活の中で刷り込み、成長とともに学んでゆく。私たちはアブラハムのようにいずれ試練を突きつけられる瞬間がやって来る。その時に、アブラハムが神の言葉をとらえたように私たちも捉えることができ、信仰によって飛躍し、感覚や常識では到底理解できない領域で、握りしめているものを手放すことや、従順に行動することができるようになる。神の御旨がどこにあるのかを御言葉からとらえてきちんと真理に生きることが大切なのである。

Q:ハンナの祈りを見るときに私は与えられた子を神に捧げますという決意が神の心を動かしたのではないかと感じました。日々祈りの中でその力を信じて歩んできましたがハンナのように神の心を動かす祈りとはどのように祈るべきですか。
A:神の心を動かすというと傲慢に聞こえるかもしれないが聖書の中にはそのように見える出来事が取り上げられている箇所がある。
しかし実際は神の御計画、摂理の中で行われていると考えられる。私たちが自分を世のしがらみから解放して、神の愛と恵みからその祈りができる地点へと上り詰めるようにと神は求めておられるのである。神は人の悪さを知りながらも私たちを愛してくださるのだから、神に近づき、神の愛のなかでいきることで、その御旨、神のお考えというものを知ることができるのである。ハンナは神の御旨を知ることができた。子どもは神が与えてくださるこれ以上ない大切な人格であると悟ることができたのである。
神の御計画はただエルカナの家がたんたんと続くことではなかったのである。神の御計画はハンナにとって嫌だった宮へ行くことがサムエルによって、その成長をみる喜びの時へと変わり、心からその日を楽しみとし、祭壇への犠牲とサムエルのための上着を用意して、自らの意思で神への感謝と信頼で宮へと上っていくことだったのである。
私たちは神に仕えることがいかに喜びであり光栄であるか、そこにどんな恵みがあるのか、神の祝福がどれだけ大きいものであるのかと経験することで、更に、より深くその中で憩うことができるのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)