同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 主の栄冠に与る —

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森田 心

「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」 (ヘブル 3:6)

 今年も一年を締めくくろうとしている時になりました。この年の歩みを、足を止めて振り返ってみる時が与えられ、主の聖名を讃美し、大いなる導きと恵みに心から感謝を致します。

 私の家族にとってこの一年は、3月に長男の結婚が与えられたことから、4月には次男の就職、5月には3男の就職内定をいただき、息子達のそれぞれの進み行く新しい道が与えられました。合わせて、家内と私も新たな仕事場が与えられました。50歳を過ぎてからの環境の変化はなかなか時間がかかることを思わせられました。しかし、今までより、もう一歩厳しい道の選択をさせていただき、これからも、更に神の御計画に進ませていただきたいという信仰に立たせていただきました。

 この3人の息子を育てていく中で、私は、彼らをイエス・キリストの十字架の御足の元まで導いていく為に、自らの進みたいと望む道を変え、教会に仕えることの出来る道を選んで歩んできました。順調な道はありませんでした。ただ、神の大いなる憐れみの故であることを感謝しました。息子たちが救われたなら、一息つけるようにとの思いを、心の内にもっていました。神は、私が必要とするものに、こころをとめていて下さいました。

 今年、教会に与えられました「主の栄冠に与る」という主題の聖言をいただき、あゆみ初めた時は、まだまだ、もっと先に与ることが出来るのを望ましていただきあゆんで行くのだろうと思っていました。けれども、週ごとのメッセージは、あなたの前におかれている朽ちぬ冠を勝ち取りなさい。そして、その為に、1つ1つ、その歩むべきことがメッセージされてきました。

 後半の大きな副題として、「敬虔を修業せよ」ということばがありました。私は若い時に職人の世界に生きていましたので、修業という言葉は心にひびきました。一瞬・一時で成せるものではなく、緊張という時間の中に身をおいて生きてみる。その価値が捕えられるときにつかみ取ることが出来るものであると思います。だからこそ、そのつかみとったものの深み、重みがわかるものは、次の世代のものにも、伝えることが出来ます。

 修業という言葉だけで捕えるならば、若い者達のこれからに当てはまることでしょう。 しかし、メッセージは、歳を重ねてきた者への敬虔を生きる大切さを強く語られていることを思わされます。これから、だんだんと肉体の衰えを感じてくることでしょう。しかし、若い者達とこれから一緒に信仰者として戦い生きていく為には、たましいが衰え、疲れ果てていってはいけない。だからこそ・・と強く語られてきた神の言葉に生きたいと願います。
 そして、幸いにも私達の教会の先を歩んできた方が、声高らかに神を讃美し、立ち上がっている姿があります。心から力をいただけるものでした。
 恵みを感謝し、続くものでありたいと願います。

(仙台聖泉キリスト教会会員)