同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(6)—

野澤 睦雄


「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう。」(箴言 27:4)


<2.各論>
(1)ねたみ(5)

<サウルの例>
 サウルが死ぬまでダビデを殺そうと追い回したそのきっかけは、ペリシテ人との戦いに勝利して凱旋したとき、女たちがタンバリンと琴を持って出迎えて歌った歌にありました。

「ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」 サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」
その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。」(サムエル記Ⅰ 18:6-9 )

 ヤコブはねたみと一緒に敵対心を並べてこう解説しています。
「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」(ヤコブ 3:14-16)

 前にも述べましたように、怒りは人の姿の前面に出やすく、ねたみは蔭に隠れて人を悪に導く根のように心の奥底で働くように見えます。ヤコブの解説がそれを示しています。
 サウルはダビデを「疑い」ました。自分が千でダビデが万なら、王位を奪われると。もし、彼がねたみをもたなかったならその疑いも持たなかったでしょう。ダビデが勇敢な兵士たちに囲まれていたように、ダビデその人はサウルの勇敢な兵士でした。サウルはねたみで勇敢な部下である兵士を失ったのです。  この世の会社組織の中でも、上司が部下をねたむ例をいくつも見ました。実に男のねたみは恐ろしい。部下が功績をあげると自分の功績になるのですのに。
 皆さん繰り返し述べますが、自分の中に「苦いねたみ」の根がありませんように。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言 4:23)
・・滅びもこれからわく。



(仙台聖泉キリスト教会員)