同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(3)—

野澤 睦雄



「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」 (ヤコブ 3:13-16)


<2.各論>
(1)ねたみ(2)


<ゲラルの人々の例>
 アブラハムは飢饉の時、エジプトに行きました。そこで大いに富む者となってカナンに帰ってきましたが、それがロトと別れる原因となりました。
 アブラハムの時とは別の飢饉がイサクの時にあって、彼はエジプトではなく、ペリシテ人の支配地ゲラルに行きました。彼はアブラハムと同じく、自分の妻リベカを妹です、と言ったので、ゲラルの王アビメレクにリベカをとられかけましたが、神の助けによってそれを免れました。
 そのようなできごとの後、彼はゲラルで畑をつくり、麦を蒔き、豊かな収穫を得ました。彼が富む者となったら、ゲラルの人々が彼をねたみました。そのことが聖書にこう書かれています。
「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。」(創世記 26:12-14)
 当時の人々にとって、水の出る井戸は、私たちの感覚では測れないほど貴重なものであったことでしょう。イサクはその井戸を掘る、・・水の出る場所を探り当てる・・・ことに長けていたようです。彼は次々と井戸を掘り当てました。
 イサクをねたんでいたゲラルの住民は、イサクが井戸を掘り当てると、この水は私たちのものだといって、それを横取りしました。彼は2度掘り当てた井戸をゲラルの人々に横取りされましたが、争いに固執せず、他の場所にまた井戸を掘りました。
3度目には、もうペリシテ人たちも争わなかったので、彼はそこで平安に暮らすことができました。

「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」」(創世記 26:22)
彼は争いに勝って平安を得たのではなく、争いに負けて平安を得ました。
私たちの争いごとに関する対応の仕方に、ヒントを与えているようです。
一方、ねたみに心を奪われたゲラルのひとびとは、敵対心を抱き、秩序をみだし、奪い取るという邪悪な行為に走ったのでした。

私たちも、自分の心を見張って、ねたみにそれを占拠されないように心懸けなければなりません。

(仙台聖泉キリスト教会員)