同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(4)—

野澤 睦雄



「「違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。」(テモテⅠ 6:3)


<2.各論>
(1)ねたみ(3)


<ラケルの例>
 ヤコブの妻ラケルについてこう書かれています。
「ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」」(創世記 30:1)
 ヤコブがレアとラケル、そして婢女であったビルハとジルパという4人の女性を妻とする原因をつくったのは、レアとラケルの父ラバンでした。
そのいきさつは皆さんもよくご存じでしょう。
ラバンはヤコブが羊飼いとして有能であるのを見て取って、もっと長く自分のところにとどまっていて貰いたかったので、ヤコブがラケルをもらったら故郷に帰ってしまうことを恐れたのではないかと推測されます。
それで、ヤコブに約束していたラケルを与えるはずのときに、レアに代わらせたのでした。
ほかでも書いたことがありますが、レアは目が弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかったと書かれていますが、きっと容貌は似ていただろうと思います。
しかしいくら薄暗いところで夜を過ごしたといっても、もしレアがいやいや父ラバンの命令でヤコブを迎え入れたのでしたら、ばれないはずがありません。
きっとレアもヤコブが好きで、父の命令を喜び、自ら進んでラケルを演じたに違いありません。
そうでなかったら、ヤコブが来たときにそれをばらすこともできたはずです。
そうすれば、怒り狂ったヤコブがラバンのところに苦情を言いに出かけたことでしょうが争いの内容が変わったでしょう。

 そのようにして彼女はヤコブの妻の座を獲得しましたが、彼女は夫が自分の方を向いてくれない悲哀を味わうことになりました。
「レアはラケルに言った。「あなたは私の夫を取っても、まだ足りないのですか。・・」」(創世記 30:15)
ということばにレアの悲しみを感じます。
ヤコブのこころはラケルの方ばかり向き続け、決してレアには向きませんでした。
ヤコブは母リベカと結託して、父イサクを欺きましたが、レアは父ラバンと結託してヤコブを欺いたのです。
しかし、神はレアにはすぐに子を与えられましたが、ラケルは待たされました。
 それで、さきほどのラケルのことばとなります。彼女は、姉を「嫉妬し」、夫ヤコブに「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」と詰め寄りました。
 しかしそれは、ヤコブ自身がどんなにか望んだことでしょうか。けれどもそれはヤコブにできることではありませんでした。
「ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ。」」(創世記 30:2)
 もちろん神がラケルを待たされたのですが、その結果ラケルは姉レアを「嫉妬した」のでした。
 一連のできごとは、悲哀の連鎖となりました。
私たちはこころして、はじめの一歩を誤らないようにしたいものです。

(仙台聖泉キリスト教会員)