同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(5)—

野澤 睦雄



「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
「人はみな草のようで、   その栄えは、みな草の花のようだ。
  草はしおれ、   花は散る。
しかし、主のことばは、   とこしえに変わることがない。」
とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。
  ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。 あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」
ペテロⅠ 1:23-2:3)



<2.各論>
(1)ねたみ(4)


<ヨセフの兄たちの例>
 ヨセフと兄たちのことは皆さんもよくご存じのことでしょう。
 ヤコブはラケルについて自分の妻と言っているが、他の3人の妻についてはそういっていません。それが、ユダがヨセフに父はこう言ったと述べている中にでてきます。「・・・あなたがたも知っているように、私の妻はふたりの子を産んだ。・・・」(創世記 44:27)
そして露骨に、ラケルの二人の子を偏愛しました。

 ヤコブは人がどう思うかを気遣って行動するような人物ではありませんでした。息子たちに対してもそうで、息子たちの前に隠すことなくヨセフを愛していることを示していました。

「ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。 イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。」
(創世記 37:2-4)

 このヤコブがヨセフに着せた袖付きの長服は、長子に着せる物であったそうです。

父がヨセフを偏愛していることに加えて、兄たちは行状が悪く、近隣に悪い噂話種になっていたことがここに書かれています。それを聞き込んでヨセフが父に告げたことが兄たちの怒りを買っていたわけです。

 更にヨセフは自分の見た夢を皆の前で話しました。まず、聖書の記事を引用しましょう。

「あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。

  ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。」
(創世記 37:5:11)

 ヨセフの兄たちはヨセフの夢に、その実現性を感じたのです。
 ヨセフの兄たちのねたみは激しく、羊を飼っている野に、ヨセフがやってくるのを見つけて、殺してしまえ!と考えたほどでした。実際には殺さなかったけれども奴隷に売り飛ばしました。ヨセフは「神が私をエジプトに使わされたのだ」と述べているように、後になってその出来事を理解し、兄たちを恨むことはありませんでした。

 エジプトに連れて行かれたヨセフは、パロの侍従長に買い取られ、やがて侍従長の家の管理者になりました。人を使うことも、政治も何も知らない人が、いきなり一国を治めることなどできません。ヨセフが侍従長の家の管理者を務めたのはエジプト全土を治める準備でした。

 ヨセフの夢は実現し、エジプトに迎えたヤコブの全家の支配者になりました。
興味深いのは、ヨセフがヤコブの神を信じ通し、兄弟たちをも愛して彼らを適切に取り扱い、兄たちを妬みから解放したことです。 その手段として、兄たちの前でベニヤミンを特別扱いしてみせました。(創世記 43:34)

ベニヤミンを奴隷にするから、他のものは家に帰れ、というのが、ヨセフが設定した場面でした。
それに対し、自分を奴隷にしてベニヤミンを返してやってくれと必死にたのんだのはユダでした。
かつてヨセフを奴隷に売り飛ばして鬱憤を晴らしたのでしたが、その逆を自ら願い出て父ヤコブへの愛を示しました。


 私たちはねたみのとりことなることがあるでしょうか。どのようにしてそれから解放されるでしょうか。ヨセフの様な人物に扱ってもらうことができるといいのですが。


(仙台聖泉キリスト教会員)