同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 結実の考察(第36回) —

野澤 睦雄

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため・・です。」
(ヨハネ 3:16)
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
(ヨハネ 15:8)

<第7章 教会と聖潔>

 新約聖書はキリストの体である教会について記したのである、という視点で教会を考察しています。その教会はキリストご自身が、その働き人たちを用いて潔いものとして建て上げなさるのです。
それではいつものように、テキストを読んでいきましょう。

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7.2) 教会の関係…使命、任命、神から委ねられた人

 「教会の関係」とはどのようなことか理解するためには、「この世の関係」ということと比較してみることが適切でしょう。「この世の関係」とは、神に関わりのない、あるいは神が放置されている関係、もっと積極的にサタンが支配している関係といえる二人以上の人間の間に生じている関係です。それに対し、「教会の関係」は二人の人間の間に神が入っておられる関係を言います。
 キリスト者の人生すべてを神がご存じであること、神が関心を持たれて見守っておられることも事実です。しかし、神が喜びなさることと許容されることとは違います。キリスト者が、この世の原理に従って生きることを神が許容し、あるいは放任されることもあります。
 私たちが誰かと関係を持つとき、どちらの関係にあるかは、私たちが神とどのような関わりをもって生きているかによって左右されます。教会の関係はまた、神の任命、使命の対象となる相手と人格的取り組みをする関係であるともいえます。二人以上の人が、神経験に係わる問題としての関係を持つことであって、単に信者同志だけでなく、不信者との関係も含まれます。
 私たちが誰かと関係を持つということは、一つの課題を二人で担うとも言えます。一つの課題を二人で担うとは、昔の篭かきが一つの篭を棒につけ二人で両側から持って担うというような場合です。しかし、二人の人の間の関係は、相手自体が課題であることが多いものです。相手自体が課題であるとは、夫婦の間に不一致があってうまく生活していけないとか、子どもが親を困らせるような行状であるとか、会社の同僚に我が儘な人がいて煩わすとか、といったことです。繰り返し述べていますが、ひとつの課題を二人で担うという内容は、例えば「説教は説教者と聴衆から成り立つ」ということです。説教者無く説教はありません。と同時に聴衆無く説教はありません。説教が働くことができるのは、説教者と聴衆がそれを話す側と聴く側を担うからです。
 神は人間の人格と人格の交わり、つまり人間が他の人間と交わって生きていく必要を認められました。「人がひとりでいるのは良くない。」(創世記 2:18)と。このひとりの男アダムをみて神がなさったことは、かれにひとりの女を妻として与えることでした。やがて神は、アブラハムとイサクに象徴される親子の関係を示されました。またエリヤとエリシャに示されるように預言者の師と弟子の関係を示されました。
 神の置かれた教会の組織によって、教会の関係が常時成り立っているのは、「牧師と信徒の関係」、「夫と妻の関係」、「親と子の関係」などです。
 これらの関係を、神学的視点で表現すると、神が二人の人を、神が目的をもっておられるある事柄に一緒に取り組みさせなさることである、と言えます。説教は、説教者だけではできません。説教者と聴衆がいて説教ができるのです。牧師だけがいても牧会はできません。牧師と信徒がいて牧会ができます。信徒だけで導きをうけることはできません。指導する牧師がいてはじめて導きを受けることができます。妻がいない人が夫婦の関係を持つことはできません。夫と妻がいて妻を愛すること、夫に従うことができます。親だけがいても、子を育てることはできません。親と子どもがいて子どもを育てること、親に従ったり教えられたり、愛されたりできるのです。
 誰かを救うことは、救われなければならない人がいるときできます。救われるためには導いてくれる人が必要です。潔めはただひとりでできるものではありません。潔めの必要を示し、潔めの証詞を聞き、潔められた人の生涯を見、潔められるにはどうしたらよいか教えられ、共に祈る時をもって頂いてできるものです。勿論すべての項目が揃っている訳ではありませんが、どこかでこれらのことを受けているものです。
 従来の福音経験に対する視点は、一方の人だけを見ているのです。誰かが救われるとき、そこに救う人の経験と救われる人の経験があり、それを一つの事としてみるべきなのです。そのように見るとき、新約の予言者、新約の祭司、新約の王が見え、また「聖徒の交わり」がそこにあることが分かります。
 またそれらの関係は、一方の人は神が派遣された人であり、もう一方の人はその人を通して神との関係をもつことが多いのです。そのとき派遣された人は神の権威を持っています。導かれる側の人がその人を受け入れることは神を受け入れることであり、拒絶することは神を拒否することになります。パウロがテサロニケの教会の人々に書き送った、「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(テサロニケⅠ 2:13)ということばは、様々な事態ごとに形を変えて存在し続けています。
 心に留めて置かなければならないことは、神から派遣される人が不完全なので、神が直接自分に語ったり、取り扱ったりして下さらず、人間が間に入ることを承知できない人が断然多いということです。また同じ人でも、ある時またはある事柄については、神の代務者であるところの新約の預言者や祭司や自分を支配する王に当たる人が神と自分との間に入ることを承知できるけれども、次の時点、別な事柄になると承知できない場合も多くあります。若い時、牧師によく従って信仰の勇者と見えた人々がいつの間にか教会からいなくなることがありますが、これらはその実例なのです。
 愛は、愛する人と愛される人とがおり、愛さなければならない課題があり、そこに神の導きがあるときはじめて、行いうるもので、愛の結実がそこに認められます。
 では、教会の関係とはどのようなものか、実例を引用して説明します。

 福島県喜多方市からすこし奥に入った山村に、後藤さんという方がいました。この人は荒川聖泉キリスト教会の遠藤さんの友人ですが、中学生のときスキーで立木にぶつかって脊髄を損傷し、以後寝たきりの人生を送りました。しかし彼はキリストを信じるに至りました。遠藤さんは仙台聖泉キリスト教会の山本光明牧師に、この友人を慰問してやって貰いたいと頼みました。そこで山本牧師は月に一回、この後藤さんの慰問にでかけるようになりました。しかし大変交通の便が悪く、一日がかりで出かけるのですが、後藤さんのところにいられる時間はほんの僅かしかありませんでした。私が自動車を買ったので、…薄給のため六畳一間に夫婦二人で住んでいた時であったので、生活とのバランスから言えば”乞食が馬を貰ったよう”でしたが…、私の自動車で一緒にいくと時間に制約されないので好都合でした。そこで私もほとんど毎回同道するようになりました。これは神の導きです。私がはじめて訪問したとき、彼はもう四十歳になっていました。この長く「病んでいる人を慰問する」ことができたことは、神に与えられた特権であって、ここに教会の関係があります。
 では、後藤さんのように、寝たきりの人がいると知ったなら、だれでも皆訪問しなければならないのでしょうか。仙台市の郊外に西仙台病院という病院があります。仙台聖泉キリスト教会に斎藤さんという人がおりましたが、その人のお母さんが寝たきりになってその病院に入院していました。その方を慰問する機会がありましたが、そこには寝たきりの人が”ゴマンといる”という表現がぴったりなほどに沢山いました。しかしそれらの人を慰問することは、私の使命ではありません。つまり斎藤さんのお母さん以外の人たちとは教会の関係ではないのです。
 異邦人がやってきたとき、イエスは「わたしはイスラエルの子らにしかつかわされていない。」と言明しました。もちろん、スロ・フェニキヤのギリシャ婦人やローマ人の百人隊長、サマリヤ人の女、らい病を癒された十人のひとりであったサマリヤ人など異邦人でイエスの恩恵に与った人々がいます。しかし、基本的にはイエスの宣教の範囲はユダヤ人でした。異邦人が教会に加えられるのは、イエスの時ではなく、聖霊がおいでになってからなのです。ですから、教会の関係には時というものが大切であることが分かります。
 信者がある会社に勤めたとします。そこでその人は会社の仕事に関わる沢山の人とつきあうことになります。こちらが信者であるからと言って、全ての人間関係が教会の関係になるのではありません。同様に信者である青少年達が、学校に行ったとします。そこで彼らは沢山の人とつきあうことになります。彼らの関係もそのまま教会の関係になるのではありません。ジョン・ウェスレー(79)は、「私は…偶然によらず選択によって友人を決めていくことにした。」といっています。教会の関係でない関係は、全部この世の関係です。
 しかし、あるこの世の友人を伝道しようと心に定め、その人と接触していくことが始まったなら、その人と教会の関係に入ります。

文献
(79)ジョン・ウェスレー、
標準説教第5巻「世にあるキリスト者」、河村襄他訳、イムマヌエル綜合伝道団出版局、1974、p.48

(仙台聖泉キリスト教会員)