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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告—83

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 7章

神は実態を見抜かれる。そのため、イスラエルは一度負けるという結果になった。
神は彼らを扱い、その姿によって世界にご自身の聖を表そうとされた。しかし、イスラエルは選ばれた民であるにもかかわらず、整えられていなかったのである。
 20年もの間、神の箱が置かれていたのは、サムエルがたてられてから、指導者としてイスラエルの中に受け入れられ、民が整えられるまでにかかった時間と考えられるだろう。そのために20年もの期間、民の中に根付いていた異教を取り除くためにかかったのである。それは地道な働きかけであった。
そして神に悔い改めを行いに彼らは集まり、神の前に自らを現したのである。その結果ペリシテ人が集まったイスラエルを打ちに来たが、神の力によってペリシテ人は打ち負かされたのである。イスラエルははじめ意気揚々と自ら時の声をあげ戦いに行った。対して今回彼らは静かに神の力の働くのを待ったのである。
 神は私たちの不備に手を入れられる方である。私たちが間違うのは私たちの傲慢の故であり、それが神への不真実につながり、問題を引き起こすのである。神は放っておかれる方ではなく、手を入れられ、私たちを悔い改めに導き、大きな過ちを行わせることを防いでくださろうとしているのである。


Q:特徴と不備を選別するという話が礼拝の中で行われたのですが、その基準ととらえ方を教えてください。

A :その違いは自らとらえることができる。自分に起こっている不備を謙遜に受け取れるか。また、柔和な心を持ち、自らの不備を指摘してくれる相手からの言葉を受け入れることができるかが重要なのである。たとえを用いて考えてみよう。
ある人がじっくり考えるという特徴を持っているとする。思慮深く考えるということは良いことである。しかしそれが一面、一刻も早い決断が必要な時に間に合わないという結果をもたらしたとしよう。そのような結果を出せばそれは一転不備に変わるのである。私たちはそこを選別していかなければならない。
「私は深く考えてるんだよ」と特徴、賜物ではあるがそれが不備へとなる事実を受け入れず、開き直ってしまっていては改善が与えられない。だからこそ私たちは不備になりやすい、表裏一体のものであることを受け入れ、逆に必要ならばこの問題の場合、時間をかけ考えるのではなく、神へ信仰によってゆだねるという行為にしていかなければならないのである。信仰の練達とはこのように考え、取り組んでいくことなのである。このような話をすると私たちは賜物と言われるものが不備になってしまうことを嘆くが、そのようなままではいけない。信仰の練達によって不備で終わるものではなく、希望へとしていくことが信仰者にとって必要なのである。


Q :「私たちは土の器である」という言葉が聖書の中に出てきますが、どのようにとらえていくべきでしょうか。

A :土の器とは様々な使われ方がある。当時はほとんどが土の器だったと考えられる。
器の役割とは中に入れるものであり、その中身が重要である。神が人を土くれから作ったということや、神が私たちを器として聖霊を宿してくださるということなどを含め土の器と言われているのである。
私たちの意思は様々あるが、それは神によって中身を入れるために作られた神の器なのであるということを表していると私は考える。
イエス・キリストがブドウの木で私たちが枝であると表されている箇所があるように、生活に密接に関わり、捉えるように表されているのである。この捉え方に正解というものはない。様々なことを考え、捉えてほしいと感じる。


Q :歴代誌Ⅱ7章2節「祭司たちは主の宮に入ることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」と書かれていますが、入ることのできない栄光の満ちた状態とはどのような状態ですか。

A :そのままとらえてよいと思う。どのような形で想像するかはあなた次第。光が満ちていたとか、風があふれ、外に向かって吹き続けていたとか。とにかくこの言葉はソロモンが建てた宮への神の臨在をあらわしているのである。神が収まる場所はない。しかし私たちが神の臨在を願うときには、その一部が与えられるのだ。この箇所は神が臨在されたという状態を表現した言葉なのである。
 私たちの意思は言語によって決定づけられている。だからこそ言葉というものに気を付けていかなければならない。特に子どもと接するときには気を付けるべきである。「表現はどうだっていいじゃないか」という人がいる。しかし「馬鹿野郎」という言葉を知れば子どもの中に「馬鹿野郎」という相手への表現が出現するようになるのである。子どもの心の中の営みに周りの人間が関係しているのである。
私は先日、教会の3歳の子どもにくすぐりをかけ、彼がその手を押しかえす遊びをしていた。くすぐられないよう手を抑え耐える彼に婦人伝道師は「勘弁っていいなさい。そうすればやめてもらえるよ」と言った。しかし、彼は言わなかった。なぜならその言葉は彼にとって負けを意味するのである。しかし「ならタイムって言いなさい」といったら彼は「タイム」と言った。タイムとは一時的な停戦であり、敗北ではない。3才でありながらその言葉の事実を理解しているのである。子どもだから理解できない、覚えないと簡単に言葉を使うことを考えていかなければならないだろう。


  Q :マタイの福音書でヘロデはなぜその幼子であったイエス・キリストに脅威を感じたのですか(マタイの福音書2章)

A :博士や様々な学者の言葉があったからこそであるといえる。博士は王であるヘロデのまえに出ることのできる立場にあることが聖書からわかる。ヘロデは博士の言葉から何らかの陰謀があるのではないかと考えていたのではないだろうか。だからこそ、彼はその後ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子をすべて殺すようにとの命令を出している(2章16節)。何としてもその脅威を防ごうとした事実がこのことからわかるのである。
人間は自分の立場が危ぶまれていることが分かると神の御業をくじこうとする。神を信じていてもそのようなことがある。自らの価値観を混ぜてしまうと知らず知らずのうちに神の御業をくじいている者に成り下がる。特に子どもを持つ親は気を付けていかなければならない。自らの価値観によって子どもの信仰をくじいてしまう可能性がある。
私たちが不備に気を付けなければならないのは、不備を隠すために嘘や偽りが出現してしまう可能性が出てくるからである。真に謙って自らを神の手にゆだねることができないと私たちは不備をも手放すことができないで神の御業にあらがうのである。


Q :先生が語った中で信仰の実ということが語られていたのですが、もう一度詳しく教えてください。

A :信仰によって私たちが実を結ぶことができるということである。私たちは信仰を持つことによって本来なら育たなかった実(結果、恵み)を得ることができるのだ。
先日ある兄弟が我が家の食卓の中で老牧師より質問をされた。しかし彼は質問の意図が読めず、なかなか答えられなかった。そこでその場に共にいた兄弟の奥さんが彼に対して助け舟を出した。私はこのとき彼女の変化に信仰が実を結んだことを実感した。彼女は老牧師をよく知っていて、横から口を挟めば、老牧師に「あなたに聞いているのではない」と言われることを承知していた。
しかし、彼女は旦那さんが混迷しているのを見て助け舟を出さずにはいられなかった。ここに大きな愛があることが分かるだろう。彼女は昔、よく保身に走っていた。自らのことを一番に考えていれば、このような行動には出るはずもなかった。しかし彼らは信仰によって結婚に導かれ、信仰の営みによって家庭を築き、愛を育んでいった。だからこそ、このような愛が生まれたのである。これは信仰によって生み出されたものであり、信仰がなければ生み出されない。私たちはこれらのことを数え、人格との関わりを育んでいかなければならない。
あなたは信仰によって旦那を信じ、信仰面では自らの方が劣っていると謙遜に旦那の信仰的決定に従っている。それも信仰の実なのである。信仰がなければその決定に従うことはできない。信じることができないのである。


Q :友人にキリスト教って何だいと話しかけられたことがあり、私は自ら考え、答えたのですが、あまり納得がいきませんでした。どのように答えればよかったのでしょうか。

A :相手はあなたの答えを聞きたいのである。あなたを試しているとも考えられる。さらに言うならば、神があなたに考えなさいと語り掛けているとも考えられるだろう。伝道的な教本を用いている教会もあるが、私たちは用いていない。しかし彼らはあなたたちが一般的な青年とは違うことを理解しているし、その違いは明確に表れている。
私たちが本気で宗教の中に生きていると世の中で力を持つような、日々考えを持って生きている人たちはその違いを見抜き、宗教を受け入れなくとも、あなたの信仰とそこに働く力を受け入れる。なぜならそれは彼らにとって利益をもたらすからである。もちろん私たちが宗教を中途半端に行っているとそれも相手にはすぐわかってしまい、あなただけでなく、宗教自体を馬鹿にする理由になってしまうこともあるのだ。だからこそ注意していかなければならない。悩んでいるならそのままあなたは日々考え続けて自分でその答えを得ていけばよい。私に答えを求めるよりも、その方が重要であり、大切だと思う。


Q :今日読まれた聖書に「高きところ」ということが出ていたのですが、それはどのような場所ですか。

A :神を礼拝するべき宮が築かれていたにも関わらず、そこに行かず、妥協したところが「高きところ」だったのである。本来ならば礼拝は神殿でしなければならない。都合と理由が整えば変えていいというところではないことの現れである。
 信仰は致し方ないではなく、どんな時であっても妥協せず貫き通さなければならないことである。しかし理由を作り、「高きところ」で礼拝をおこない、理由があるからいいでしょとしてしまえば、様々な面に不備が出てくるのである。私たちの教会の中でも「これは守りましょう、しないようにしましょうとしているルール」がある。それを必ず守らなければ罪になるというものではない。しかし、このことを守ることが祝福につながるのである。またそれは私たちの不備に手が入る機会にもなるのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)