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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告—81

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 6章

 ここまでの一連の話で、神をイスラエルが自分たちの都合のいいように扱っていたこと、その故に神の箱をペリシテに奪われてしまったこと、ペリシテは神の箱を持ち帰ったものの、神の箱によってさまざまな災難が起こったことが語られていた。イスラエルの民は神の民でありながら、信仰が不安定でいきづまっている実態がある。私たちもこのような時代の中、神を畏れ、教会と世と家庭とをどのように持っていくか、日々をどのように過ごしていくのかが大切になる。しかし、自らの意のままに宗教を行っていることがあり得ることに注意し、恐れていかなければならない。中途半端な信仰は、似て非なるものをもってしまうのである。イスラエルは真の神という姿を知りながら、中途半端な信仰のゆえに神の箱を偶像化し、ただ自らに都合のいいように益をもたらすものとして扱ってしまったのである。
 イスラエルは真の神を信じているといっていながら、ペリシテから返ってきた神の箱の扱いに戸惑っている事実がある。返ってきた神の箱を喜んだのにもかかわらず、その後神の箱をきちんと扱えていないのだ。聖なる神を直接見てはならないと示されていたにもかかわらず、興味だったのか何だったのかその理由はわからないが、神の箱の中を見た故に5万7千人が打たれている。人は神の哀れみや恵みを自分のいいように取り扱いやすい。「このくらいのことで神は怒られない」「神は愛のゆえに許してくれるだろう」と思ってしまうのである。しかし神は哀れみ豊かで愛をもって私たちに接してくださる一方で、人の悪には裁きを下すのである。人は神を信じることで神の御業を見出し、その敬虔を積むが、それが中途半端であると神のみ恵みにあずかることができない。なぜならそこには恐れがないからである。
 このイスラエルの姿から、ひとたび神が怒られたならば、人間が禁と呼ばれることを犯すならば、そこには大きな災いが、裁きが、私たちを待っていることに気を付けていかなければならない。神は愛ゆえに人を許すが、私たちがそれを前提に考え、神を侮るならば、神はその事実をもって裁きを下す方でもあるのである。


Q: 15節にレビ人が登場していますが、ベテ・シェメシュの人々が神の箱の扱いはレビ人に任せるべきだと判断し、呼び寄せたということでよろしいのでしょうか。

A: そう考える。そのようなことを考えられる面を持っていたことは事実だ。神に対する敬虔さを持っていた部分と、しかし神の箱の中を見てしまったという一面の中途半端さもあるのである。
 神の聖という部分に対して、どのような姿勢でいくのか。ベテ・シェメシュの人々は不敬をしてはいけないと線引きをきちんと行っていかなければならなかった。親しみを持つ部分と、わきまえて神の前に立つ部分を持っていなければならないことが事実あるのだ。それは一面厳しいが、だからこそ私たちは意識して注意していかなければならない。私たちは自分たちの悪さや、恐れていかなければならないところは何かと日々信仰生活の中で吟味していかなければならない。それが自己義認になってしまうことを恐れていかなければならないのである。そして恐れをもってそばにいるものに聞き、確認していかなければならない。私たちの健康がいつ害されるかわからないからこそ病院で定期的に検査をしていくように私たちの信仰の姿も確認していかなければならない。「私は大丈夫です。イエスキリストの十字架によってすべて許されました。天国に行くことは決まっています」という人がいるこれは間違いである。日々恐れをもって生きていかなければならない。自分で決めて一つ一つ確認していくことが大切である。人は年齢を積み重ねると自然とそれに伴った地位を得る。だからこそ若いうちから前に歩む人、自らを戒める人を置いていかなければならないのである。漬物石のように私たちにのしかかって圧力を与えてくれるような人をそばにおいて大切にしておくべきである。漬物石の重さで漬物はつかる。人もその重さでおごらず、高慢にならずに生きていくことができるのである。そういう人を苦しいから、邪魔だからとさっさとよけてしまった人はその故に敬虔な信仰を持てなくなってしまうことが多いのである。


Q: サムエル記Ⅱ 15章10節に「アブシャロムがヘブロンで王になった」といいなさいとかいてあったのですが、ヘブロンという場所に意味があるのですか。

A: ヘブロンはユダ部族にとって様々な意味のある地である。
 アブシャロムは民の心を盗んだと書かれているが、本来イスラエルの王は神の召し、真実と真理の中で選ばれ、それを民が認めるという形がとられていくべきであった。しかしただイスラエルの人々が不満の中で、自らが支持する人物を選ぶという人気投票的な選びかたがされている場合もあり、この時のアブシャロムもそうである。
 ダビデもはじめにヘブロンで王になったそのこともあって、アブシャロムは自らの名をあげるため、ユダ部族にとっては名のある地であったヘブロンを用いたのである。つまり本来大切に守られるべき、この地が悪用されてしまっているのだ。  この時代の王に関して神の召しという話をしたが、では自らの子に受け継がせる世襲的なやり方を用いてはいないのか、そのような場合もみられるのではと言われることがある。しかしこの様な子に受け継がれる場合でもそこに神の召しがあるといえるのである。このことは牧師の家庭の子どもの献身についても言える。
神の召しとはなんであるか。300人のクリスチャンがいてその中で1人自らが選ばれたことが召しだと人は考えやすい。もちろんこれも事実、召しだと本人が確信しているならば問題はない。しかし私の娘は自らの献身について、一般的に考えられるほかの献身者のような神に急に導かれ、召しを受けたという経験をもってはいない。しかし献身していこうとしている。では彼女に召しはないのかというとそうではない。彼女は自らの召しに確信を持っている。彼女はこのクリスチャンが1パーセントにも満たない国の中で3代目の牧師の娘に生まれたということ自体が神の召しではないかというのである。神を信じ、ご自身に仕えるために神は私がその命にいきれるよう環境を整えてくださったと彼女は考え、またその中で幼い時から当たり前に育ったからこそ自ら神に仕えたいと願っているのである。


Q: 神は「神を信じるならば救われる」という広い枠を持ちながら同時に、イスラエルを特別視していた部分が感じられるのですがそれも神の性質と言えるのですが。

A: 神はイスラエルを通してすべての民を祝福しようとしておられた。イエス・キリストの贖いはそれを信じるものすべてに与えられる。私たちは死後裁かれるという事実が聖書にも書かれている。神はすべて良しとされるのではなく、裁きをもって判別される。これは簡単ではない。だからこそ私たちは信仰をもって日々自らを戒め、神の道に歩み、従い、敬虔に生きなければならない。
 ある姉妹は教会の分裂を経験した。その時彼女は教会に残ることを決断した。しかし、それによって彼女は教会へと導いてくれた方々と袂を分かつこととなった。彼女はそれでも教会に残り、従い続けた。それが現在の結婚につながり、今は2人の子どもが与えられ、クリスチャンホームを築いている。それは「それでよかった」とすぐに言えるようなものではない。苦しみは多くあったことは事実である。しかし、彼女の中には「神に従いここまで来た」という確信がある。自分で好き勝手に選びとったのではなく、何より神を信じて、その導きに従い続けたということがある。そこには信仰を揺るがすものが入るスキを与えず、絶えず信仰を固く建て続けることができるのである。


Q: 日曜日のメッセージで「愛により与えられるものこそ本当の自由であり、自分勝手は自分の自由を狭めている」ということが語られましたがもう少し、詳しく聞きたいのですが。

A: 人間は神を信じることのゆえに決まり事や束縛、しがらみがあるという考え方を持ちやすい。だからこそしがらみのない自由な人生を生きたいと願い教会にいることや神を信じることをやめたいと願うものある。しかし実際は神やその教えが存在しない方が、自分の幅を広げられずにいるのである。
 では自分の自由を全うするにはどうすればよいのか。そこには論理を形成していく必要がある。自らが抱えている問題を乗り越えるためにはどのようにすればいいのかと考え、実際に行動していかなければならないのだ。
 例えば旦那を愛したいと思うが、旦那のほうが勝手をしているとその行動のゆえに、愛することをためらってしまう。そこには旦那の行動によって自らが愛するという行動をやめてしまう、自由に行えない事実がある。しかし、そのことに気づくことができたのなら、旦那の勝手な行動によって自らの意思を変えてしまうという事実を律し、自らを戒め、意思を変えてしまうのではなく、変えないようにと行動していくことができるのである。そしてそれは実を結ぶ。それを意識して行っていくと、旦那の方も愛してもらったというゆえに奥さんのために尽くそうとしてくれるようになるのである。これは様々なことに応用できる。自らが問題にぶつかるたびに、その原因を考え、何が自分のしたいこと、しなければならないことをとどめてしまうのか。なぜ自由にそこで行っていけないのかを探っていくことができ、その場所を意識して変えていくことができるようになるのである。
 嫌な仕事をいやだいやだといつまでもしているのは合理的でない。私たちを束縛するのは周りの人間の行動や、反応、不満である。しかし愛を持つことができるとそれに対して愛ゆえに自由に行っていくことができるのである。
 信仰は神の教えに耳を傾け、聞き従うことである。しかしそれを「いやそうは言われてもあの人の態度が悪くて」と理由をつけて、教えに従うことができなければ結局はしがらみから逃れられないのである。


Q: 箴言3章5節の御言葉「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。」の言葉の意味は分かるのですが、しっくりこない部分があるのですが。

A: 神により頼むべきできことが存在する。しかし「それならクリアできます」といって自らの力で行ってしまう人たちがいる。それはその問題を確かに超えられるかもしれないが、その一方で神の力が働かれる瞬間を見ることができないということもある。だからこそ、神の前に従っていこうという時にいかにも知っていますと自らをひけらかすように出すのではなく、神により頼んで「どのようにことが起きるのか、神の力が働かれるのか見ていきましょう」ということが大切なのである。それはさらに自らの経験として、神の働かれる瞬間とその恵みとを知りえることができ、またその経験を自らのものとして豊かに得るだけでなく、他者へと語ることができるのである。自らのみで終わることのない他者へと分け与える恵みとなるのである。


Q: 先日の礼拝で「神はいかに人を救おうとしておられるか。そして人間の決定にいかに苦しみ、悲しんでおられるだろうか。しかし、神は人間の最終的な「信じる」か「信じない」かという決定に触れない(人間が自分で自分のことを決めたら神はそれを覆したりなさらない)のだ。」と語られたのですが、私は他者を導くうえで、「その決定に触れてください神様」と思う瞬間があります。先生はどうお考えですか。

A: そう考えるのもわかる。しかしその反面、そのくらい救われる可能性が低かった、救われないだろうと考えていた魂が救われたときのなんと幸いなことか。天もその救われたたった一つの魂に喜び、宴会を催すのである。礼拝では中風の人が4人の友のゆえに救われたことを取り上げた(ルカ5章17-26節)。神でありながら人となられたキリストには「最終決定に触れない」といいながらも人となられた故に、感情をもって人間にかかわっている瞬間を見ることができる。この中風の人は彼の信仰ではなく、その友のゆえに救われたといえる。先ほどのことと言っていることが違うのではないかと言われるかもしれない。しかしそこにこそイエス・キリストが真に人となられたことが言い表せるのではないだろうか。彼を救いたいと思う友の姿にイエス・キリストは心を打たれたのだろう。きっとキリストご自身が人間をその罪から救うために自らの命を捧げる必要があることをも重ねていたのではないのだろうか。そしてこれほどのことをしてくれる友の故にこの中風を患っていた人は救われると考えたのではないかと感じられる。このキリストの姿に私は心打たれずにはいられない。神が「人間の決定に触れない」という線引きをしっかりと置いておられるゆえに、キリストが真に人となられご自身の愛を十字架の死を持って示したことが明らかになったのである。


 自身の子どもたちもそうだが、若い人たちの前に私たちは大人でなければならない。社会がおかしくなっているのは、大人が大人として存在することができない事実があると私は考える。本来大人は子どもの尊敬を得、観察し、関わり、最後には彼らを褒めなければならない。それは上っ面をなでるような褒め方ではない。その子どもの本当に求めている言葉を述べなければならないのである。しかしこの役割が現在損なわれてしまっている。自由という言葉が広がり始め、その故に大人が自分のこと、したいことにかまけてこれらのことを怠ってしまっているのである。だからこそ、子どもたちの尊敬を得られず、彼らの本当に望む僅かな言葉も言えずに、結局は関係が崩壊してしまうのである。その関係が豊かに保たれていれば、本来受け継がれるべき経験も存在するのにも関わらず、それがならずに結局はその経験が生かされずに終わってしまうのである。この関係が豊かに保たれれば、大人はその子どもに自らの生き方、考え方、経験を教えて、受け継ぐことができるのである。だからこそ私はそれを大切にしたいのだ。

(仙台聖泉キリスト教会会員)