同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(8)—

野澤 睦雄


「しかし彼らは、ペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂に入って席に着いた。
律法と預言者の朗読があって後、会堂の管理者たちが、彼らのところに人をやってこう言わせた。「兄弟たち。あなたがたのうちどなたか、この人たちのために奨励のことばがあったら、どうぞお話しください。」 そこでパウロが立ち上がり、手を振りながら言った。
 「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々。よく聞いてください。
・・・
会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。
  次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。
しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。
そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。」(使徒 13:14-46)



<2.各論>
(1)ねたみ(7)

<ピシデヤのアンテオケにいたユダヤ人たちの例>
パウロは伝道旅行のいく先々でユダヤ人たちの反対にあいました。
 冒頭のみことばは、パウロが伝道旅行の途上で遭遇したユダヤ人たちの例です。
ピシデヤのアンテオケは、パウロたちが最初の伝道旅行にでかけてまもなくやってきた町でした。その町のユダヤ人たちは、イエスのまわりに大勢の群衆が集まって、その説教を聞いているのをみて、ねたみに燃えたひとびとと全くおなじでした。
彼らはパウロたちの話をきき、それが神のことば・・彼らは旧約聖書を持っていました・・に沿ったものか否か検討するまえに、群衆が集まるのを見て「ねたみに燃え」てしまいました。

パウロが伝道旅行をした間、何処にいっても同様でしたが、1カ所の町だけ例外が記されています。それはマケドニヤの町ベレヤの人たちでした。
「兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスを(テサロニケから)ベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入って行った。
ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。」(使途 17:10-12)

どうして他の町の人々は、ベレヤのひとびとと同じようにできなかったのでしょう?

「鑑(かがみ)とする」ということばがあります。「鑑」は、本来は「良い手本。模範」の意味なのですが、「鏡」と同じで、自分の姿が映っているという意味でも使われます。
パウロに反対したひとびとが、自分の姿とならないように気をつけなさい、という意味になります。

自分のこころをよく観察し、ありのままの自分を把握することが大切です。そしてねたみがこころに侵入することを許さないようにしなければなりません。
「ねたみ」は、サタンの強力な武器ですから。



(仙台聖泉キリスト教会員)