同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく (29) —


「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」(コリントⅠ 2:11-16)

 讃美を糸口に神に近づく幸いを、繰り返し強調しました。試していただけないと空しい文章になってしまいます。
ところで皆さんは、他のことがらを通してでも、神に近づきたいという願望を持つことができたでしょうか?

 讃美歌の歌詞に、
 ・・
 なしたまえ 汝が旨 我をいま隠して
 ただ一人汝のみ  見えたまえ世人に
 ・・
とありますが、説教学を学ぶと、自分をださず、イエス・キリストが見えるように語りなさいと教えられることでしょう。
それで、聖書を研究し、聖書にはこうかいてあります、と語られて終わりになるのではないでしょうか。
 新約聖書を読んでみると、パウロがいかに多く自分のことを語っているか分かります。私はパウロに倣いたいと思うのです。
このコラムを皆さんが読んだとき、私が何を、どのように信じ、どのように生き、神が私をどのようにしてくださったのか、見えるのがよいと思っています。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言 4:23)
とありますが、私は自分のこころを見守るということをずっとしてきました。努力してそうしたのではなく、それが私にとって自然なことでした。その視点で自分の生きてきたことを見るとき、繰り返し述べていますが、神に近づきたいということが救いに与る糸口となり、ずっとそこに生き続けてきたと言えます。
 私が生きてきたところは、三つの区分に区切ることができます。

 最初は幼少のときから19歳、救いの恵みに与るまでです。
・神がおられること
・聖書は神のことば、眞理の書であること
・イエス・キリストが救い主であること
を間違いなく信じていました。
しかし、そう思っているだけで、こころになんの引っかかりもなく、思うままに生きていました。
救いに与る直前に、自分のこころの<虚しい>ことに気づいたのです。
この世界にはもう生きていられない、というほどのものでした。それが、私が神に近づきたい願望を持った動機でした。

 第二は、救いの恵み与ってからの約5年間でした。
こころの虚しさを取り去っていただき、信仰の世界に夢中になりました。聖書を読み、信仰書を読み、・・読み漁ったというのがぴったりです・・教会生活に励みました。
だがしばらくして、自分の願望と神のみ旨に違いがあることに気づかされました。
神に「お従いします」と口で言うのですが、心はだめで、すぐ従えない自分に戻ることを繰り返しました。それは多くの事柄でそうなのではなくただ一つのことでした。
神の愛、恵み深いことをよく分かっているけれども、その一つの問題のために神の前に出ることは恐ろしいのでした。その一つのことのために、教会の集会も、聖書も、信仰書も、知識は増えましたが、私に霊的な進歩をもたらしませんでした。

 第三は、時が来て、なんと表現したらいいでしょう。神が私にみ顔を隠された、といったらいいでしょうか。それは私にとってとてつもなくつらいことでした。それで、私はこころから「神よ。お従いします。あなたの恵みが欲しいのです。あなたの下さるもので満足します。」と神に申し上げました。
 神はそれを受け入れてくださり、聖霊の満たしをくださいました。
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」 (コリントⅡ 3:17)
私は解放され、自由になりました。そしてキリストの平和がこころの支配者になりました。
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」 (コロサイ 3:15)
 それまで学んだこと(第二の段階で役に立たなかったこと)が生きて働くものとなりました。
 以来、ここに生き続けています。

 神のお取り扱いは、それぞれの段階でちがいます。
第一と第二、第三との差は「この世の人」と「神の所有となった人」の差です。その差をフィリップ・ケラーが著書「羊飼いが見た詩篇23篇」に見事に書き表しています。
 自分の所有でない羊に対しては、それがいかに憐れな状態であっても決して手を出しません。自分の所有となった羊は、これを愛して、養い、病気、虫、毒草、暑さ寒さ乾き、悪い獣、盗賊・・から守るのです。
 ここに表現されていることは、外部の状況だけではありません。それは、誘惑であったり、生まれつき持っているこころのなかことが多くあります。それで神は私たちを導かれるのです。
信仰生活は、悔い改め、生き方を変えることが中心だといっても過言ではありません。なんの葛藤もなくできることは、それが善であるなら、そうすればよいだけのことです。
悔い改めるできごとがある、といいましても、すぐ救われていなかった状態にもどっているのではありません。第三の段階と述べた状態でもおなじです。それは神のお取り扱いを受けている状態です。

 「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。」 (コリントⅠ 3:1-3)
第二の段階を肉に属する人、第三の段階を御霊に属する人、とパウロは説明しています。
 第二の段階にいるとき、「これが道だ。これに歩め」(イザヤ 30:21)と迫られると、それは律法として働くでしょう。
もしそこから解放される第三の段階にすすまないなら、
「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ 7:22-24)
と叫び続けるつらい信仰生活をし続けることになります。

  「私たちには、キリストの心がある」
神のみこころに喜んで生きるものと変えられたとき讃美に溢れて生きることが許されます。

♪歌いつつ歩まん ハレルヤハレルヤ
 歌いつつ歩まん この世の旅路を