同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(7)—

野澤 睦雄


「また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。 ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。」
(使徒 5:12-18)


<2.各論>
(1)ねたみ(6)

<サドカイ派の人たちの例>
 冒頭のみことばは、ペンテコステの後、十二弟子たちを通して、神が働かれ、福音が広まっていくのを見て、大祭司とその仲間であるサドカイ派の人々が、その運動を阻止しようと立ち上がった記事です。
 一般の民衆は「彼らを尊敬していた」のでしたが、神に仕える中心人物たちであるはずの大祭司を筆頭とした彼らは「ねたみに燃えて」しまいました。
 ねたみは、目の前で進行しているできごとを冷静に判断する力を失わせます。もし冷静に判断できたら、使徒たちによって行われている業は、神によること以外にはあり得ないと納得できたはずです。
 夜、イエスを訪ねたニコデモは、イエスのなさる業に神の働きであることを認識することができました。
「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(ヨハネ 3:1-2)
 パリサイ派では、もう一人、イエスを葬ったアリマタヤのヨセフという人物がいました。彼は、サンヒドリンの有力な議員で金持ちでした。イエスの弟子になっていたが、ユダヤ人たちを恐れて、自分がイエスの弟子であることを隠していました。しかし、イエスの十字架の死の直後にピラトに願い出てイエスを自分の用意していたものと推測される墓に葬ったことが書かれています。彼は正しい、立派な人物で、他の議員たちのイエスに対する行動に同意していませんでした。
 アリマタヤというのは、町の名前ですが、いまでは、その所在が分からないそうです。
イエスの時、ニコデモとアリマタヤのヨセフのように行動した、サドカイ派の人はいなかったようです。

 繰り返しになりますが、「弟子たちが洗わない手でものを食べている」と非難されたことに反論され、「外から人の口に入って人を汚すものはない。人の口から出るものが人を汚すのだ」といわれました。このことについて、「すべての食物をきよいとされた」と解説されています。
(モーセの律法のきよい食物と汚れた食物の区別を廃しされたと理解されています。)
その意味を後で弟子たちが質問したことに応えてイエスは、人の口から出るものは、人の心からでるのであって、それが人を汚すのであるとされています。そしてそのひとのこころから出るものに「ねたみ」が入っています。

 皆さん、サドカイ派の人々の轍を踏まないようにしましょう。




(仙台聖泉キリスト教会員)