ショートコラムねだ
— ダイナミック —
パジェットウィルクスの著書に、ダイナミックということばが最初についたものがあり、ダイナミックシリーズと呼ばれている。それらのダイナミックという用語の翻訳に「動力」という日本語があてられている。
・救霊の動力
・信仰の動力
・贖罪の動力
・基督者生涯の動力
などがそれである。
辞書をひけば、ダイナミックの訳語に、動力、動力論なども書かれているので、動力もひとつの読み方であろう。
私は工学の世界に生きたものであって、ダイナミックという用語はいつも、スタティックということばと対比して用いた。
それは、ダイナミックは「動」をあらわし、スタティックは「静」をあらわすのである。
神のみ業を考えるとき、「動」と「静」はなにを意味するだろうかと興味がわく。
神のみ業は極めて「ダイナミックだ」と直感するが、自分は一体なぜ、何にダイナミックさを感じているのだろうか?と自分で反問する。
生きているものは動く。動かないものは死んだものである。
神のことば、神のみ業は生きている。
救霊(奉仕)は、ダイナミックなものである。奉仕は動であって静ではない。
信仰というものは、ダイナミックのものである。信仰は動であって静ではない。
贖罪というものは、ダイナミックなものだ。贖罪は動であって静ではない。
基督者の生涯はダイナミックなものである。クリスチャンの生涯は動であって静ではない。
神のなさることは、人間ひとりひとりに対して全部異なっている。
同一のものの繰り返しには「静」を感じるが、どれも違っていれば「動」と感じる。
画一なものを求めると、いつしか「静」となってしまうであろう。
私たちの信仰が、生き生きとしたものであることは、「動」の信仰をしていることにほかならない。
ダイナミックに語り、ダイナミックに書きたいものだ。そして隣人に接するにもダイナミックであることが要求されるだろう。