同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(11)—

野澤 睦雄


「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」(コロサイ 5:8)


<2.各論>
(2)怒り <1>


 次に「怒り」について、聖書はなにを語っている考察しましょう。
 今の世界はありとあらゆる情報が溢れていますが、その一角に「かっとなって・・・」大変なことをしでかしてしまった、たとえば、自分にとって一番大切な人であるはずの妻を殴り殺してしまった、とか、親を殺した、子を殺した、友人を殺したなどなど、という記事は枚挙にいとまがありません。

 ある兄弟は救われる前、自分が短気で怒りやすく、いったん怒ると何をしでかすかわからないことに気づいていました。いとこが先に教会で救われて、あんたには救いが必要だ、教会に行こうとしつこくさそわれたので、彼についていったところ、牧師「あなたがたは、怒りますか?怒ることは人を殺すこととおなじです。」と説教したそうです。それを聞いて愕然とし、悔い改めて救いの恵みに与り、大変なことしでかすことなく、生きてくることができた、と証していました。
「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ 5:27)というみことばと同一線上に並べてみると、「人を怒ったものは、こころの内では既に殺したものだ」、と言われた説教に納得がいきます。
 「怒り」のこころの中の芽は「むかっとする」と表現されています。それはまだこころの奥にとどまっている段階のいかりです。それを表情に表すひともいれば表さない人もいて様々です。

ねたみについて考察したときは、それから解放されるための恵についてはあまり考えませんでしたが、ここでは早速、先の兄弟の例のような恵みのべました。更に聖霊は「むかっとする」ことからも解放してくださるでしょう。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22-23)
しかし、ねたみについて「神のねたみ」があったように、「神の怒り」もあります。神と共に怒らなければならないことがあります。それは「義憤」と言われます。罪の怒りと混同しないようにしましょう。

(仙台聖泉キリスト教会員)