同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 自分も母となって、母を思う —

haruka-san

齋藤 遙



「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「私は全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」」(創世記 17:1)

 このみことばは、山本嘉納先生より娘の名前をつけていただいた箇所です。
 2017年10月31日に娘、顕(あき)が誕生し早くも6カ月を迎えようとしています。(名前の由来:文語訳聖書では、「エホバ、アブラムに顕れて」となっています。)
 また、今年の3月21日は結婚して4年目になります。この所まで、この小さな家庭が教会の先生方や兄弟姉妹に愛され娘もここまで元気に育まれ愛されていることに感謝致します。

 先日、聖書を学ぶ会にて嘉納先生から「あなたがこれまでどのように愛されてきたかを考える」おすすめがなされましたので、今月はそのことを振り返りながらお証させていただきます。私は小学校一年生の頃、家庭の事情により母子家庭の中で育ちました。と申しますのは、父に様々な問題があり、幼い記憶ではだいぶお酒に呑まれていたように記憶しています。
顔や姿こそ覚えていませんが、お酒に酔った父は家庭を顧みず家族を愛せなくなっていたことを覚えています。そのような中では良くないと導かれて嘉納先生を始め教会の方々の助けと祈りの中、父と離れる生活になりました。母はその為にお仕事を始めました。持病を抱えている母ですが、私達の為に一生懸命働く姿に今も感謝を覚えます。
  仕事で疲れていても休みがとれた日は色々な所に連れて行ってくれ、大好きなホットケーキやフレンチトーストを食べきれないくらい作ってくれたこともありました。お仕事の合間も授業参観や学校行事などにきてくれました。また教会に出かけてもすぐに帰るのではなく教会に残って遊ぶことを許してくれて待っていてくれました。
 なかなか休みも取れず仕事が忙しくなり共に一緒にいることが難しくなってきたとき母が不在中も安全にさみしくないように最善の方法で愛してくれました。朝早く私にお弁当を持たせて山本先生御家族に預けてくれました。
 学校がお休みの日、特に長期休みの時や午前授業の日などは、いつもお世話になっていました。自宅で一人留守番している時でも先生から電話をかけてくださり、いつも気にかけてくださいました。
 しかし当時から私は人見知りの上にあがり症で緊張すると声も出せず、勉強も運動も苦手、家で手伝いもしなかったものでしたから挨拶も何も出来ないものでした。しかしそのような私を嘉納先生、盡子先生は受け入れてくださり時に優しく時に厳しく本当の親のように接してくださいました。

 平日の忙しい中でも私の為に時間をつくってくださり宿題(勉強以外も鉄棒やプール)や自転車、スキー、料理や片づけ、自動車運転、教会の御用の為のオルガンや掃除など様々なことが出来るようにと根気よく接してくださいました。特に盡子先生との関わりはここでは書ききれないほどにあります。
 感謝なことは自信のない私を見離さず、共にそのことに取り組んでくださり、歩みの遅い私でも出来ることが増えていきました。同時に自分に自信が持てるようになり、狭かった視野も広げてくださいました。また、神様に仕える喜びや隣人を大切に愛すること、信仰の価値観、常に神様の存在を覚えることを教えてくださいました。
 山本光明先生や嘉納先生は食卓の中や家族旅行や聖泉の遠出の時にも一緒に家族の一員として迎えてくださり、その中でも家族で行動するときの緊張感やさまざまな空気、親子の会話や関わり方を家族でもない私にもしてくださり、後にそれが愛であるとわかりました。

 山本和子先生は私の誕生日のときや私に元気がない時、「いつもお祈りしています」と声をかけてくださり、辛い時は何度も励まされました。あまり人に知られないような些細な教会の働きも、いつも見ていてくださり、感謝をしてくださいます。  そのことで私は教会で働くことに喜びを見出すことが出来ました。
また、共に教会の中で過ごしている多くの家族や友も私を愛してくださり、その方々のクリスチャンホームの姿、空気を通して神様が存在する家庭の素晴らしさを知り結婚する時も神様から示された人と結婚しようと決めました。私の人生の様々な節目において誕生から救い、受験や就職、結婚、出産にいたるまで私は多くの祈りと励ましによりここまで導かれました。またうれしい時、悲しい時共に涙を流してくださる隣人を神様は常に用意してくださいました。

 私が小さかった頃に父から離れるという出来事があり、それは私たち家族にとって大きな決断だったと思います。しかし、そのことは私と教会をつなぐ重要な出来事として感謝しています。またそれだけでなくその後、家族が悲しい思いをしないように教会の皆さんが一丸となって守ってくださり愛してくださったことに本当に感謝を覚えます。
 主人も当時は教会の友ではありましたが、結婚し家族となった時主人も知らなかった私の歩みや教会との大切な関係性を受け入れてくれました。今娘と共に生きる中に私達夫婦はどのように娘を愛していくか、また娘が教会や神の中で愛されるように日々取り組み考えています。そのひとつに私は集会中静かに眠っている娘を集会後にあえて起こします。それは、短い時間の中にも教会の皆さんに顔を見せて笑顔で挨拶することが今の娘に出来る御用だと私に示されているからです。また、眠ったままで帰宅すると教会に出かけたことすら分からなくなるので、教会の方々を通して神様に愛されていることを娘に実感してもらいたいと考えています。また、主人は仕事や礼拝前に娘とお散歩に出かけたり、大好きなお風呂を主人は欠かさず一緒に入ります。主人と娘の大切な時間を見るときに私も幸いな気持ちになります。
まだ、右も左もわからない娘ではありますが家族や教会を通して神様に愛される豊かさや喜びを私達夫婦も家族や教会で愛されたように娘を愛し家族3人神様の前に仕えていきたく願います。
娘に与えられた顕という名前が小さな働きでも主の顕れ(あらわれ)となれるように私達夫婦で愛し守っていくことが出来るように引き続き神様におゆだねし祈り取り組んでまいります。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)