同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく (32) —


「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ 4:7-8)

 私の信仰生活は三つの段階からなっているといいましたが、それは神に近づこうと思って歩んだときに自分の身に起きたことを、ありのままに証言したに過ぎません。
 それはクリスチャンにとって普遍的なものなのか、他のひとびとの語ることもきいてみたいものです。それでその一例を、バンヤンの「天路歴程」に求めてみましょう。
「天路歴程」は物語ではありますが、バンヤンがクリスチャンの経験を観察して著したものであって、バンヤン自身の信仰の生涯が色濃く反映されているといえるでしょう。
 天路歴程の主人公「基督者」は、自分が生きている世界は滅びにむかっていることにきづきます。それが最初の段階です。

彼は重い荷を負って、旅をしなければなりませんでした。その荷は降ろしたくてもどうしても降ろすことができないのです。彼は「伝道者」に導かれて、善い牧者であるキリストの牧場の門を目指して旅をしますが、その行く道には多くの困難がありました。
 ルターが救われるまでに、多くの困難な時を通ったことはよく知られていますが、この天路歴程の主人公も、その求め方はルターと違いますが、同じように困難をこえて、そこに行き着くのです。
バンヤンをその段階にもかなりのページを割いています。
 「基督者」は、ついに十字架を見上げることができ、それまでどうしても捨て、降ろすことのできなかった重荷が彼の背から転げ落ち、見えなくなりました。こうして「基督者」は、キリストによって救われて歩む人生を行くのです。これが第二段階です。バンヤンはこの段階にもっとも多くのページを割いています。
 それは、天国に行くまでは「この世」を歩むのであって、クリスチャンが天国にゆくことのないように、誘惑し妨害するサタンの世界だからです。全部取り上げるわけにはいきませんが、いくつかを拾い上げてみましょう。
「死の影の谷」があって、サタンの手下どもが直接、脅しにかかります。「そこには昔、法王と異教徒という二人の巨人が住んでいたが、その権力と暴虐とによって残酷にも殺された人々の骨や血や灰などがそこに横たわっていた。」
「難儀が丘」で「はじめのアダム」という人物にあい、娘が三人いて、それをお嫁にあげよう。娘の名は「肉の欲」「目の欲」、「持ち物の誇り」というと。基督者はそういう誘惑を退けて進みます。

「空の町」、そこでは「空の市」が開かれこの世のありとあらゆるものが売られています。「たとえば、家屋、土地、職業、地位、名誉、昇進、称号、国家、王国、欲情、快楽、またあらゆる種類の娯楽、たとえば、娼婦、娼家のおかみ、妻、夫、子供、主人、召使、生命、血、肉体、魂、金、銀、真珠、宝石などであった。そのほか、この市ではいつでも奇術、詐欺、勝負事、遊び事、道化師、物まね師、悪党、無頼漢、しかもそのあらゆる種類のものが見られる。・・・
諸王の王であられる主ご自身もこの世におられたときは、この町を通ってご自分の国へ帰られたので・・ベルゼブルは町から町へと案内して、暫くの間に世界中の王国を示し、もしできればこの聖なるお方に自分の空しい物を値切って買うよう誘惑した。」

 「空頼み者」と言う人物について行って、本道からそれ、基督者と、道連れになった「有望者」のふたりは、「懐疑城」という城に捕らえられてしまいます。その城の主は「巨人絶望者」といって、二人を死んでしまいたいと思うほど容赦なく打ちたたきます。とうとう彼らは懐疑城の城門は、「約束」というカギで開くことを見いだしてそこから逃げ出します。
「自惚れ国」「魅惑卿」を通ります。そこには天国までの旅を完遂しないで、眠りこけさせる誘惑があります。
 第二段階はこのような旅です。

やがて基督者たちは「ベウラ(配偶のある者)」の国にやってきます。
それが第三の段階です。

「そこの空気は非常にかぐわしくて快く、道はその中を真直ぐに通っていたので、そこで暫く休んで自らを慰めた。その上ここで絶えず鳥のさえずりを聞き、日毎にものもろの鼻が地にあらわれるのを見、また山ばとの声をこの地で聞いた。この国では太陽は昼も夜も輝いていた。それは死の影の谷より彼方にあって、巨人絶望者も力及ばず、ここからは疑惑城も望み見ることはできなかった。ここでは目指す都も視界のうちにあり、そこの住人にも何人か会った。この地は天国の国境であったから、輝ける者たちがそこを歩いていたのである。この地ではまた花嫁と花婿との契りは新しく結ばれた。実際、ここでは「花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる」のである。」
(引用している文章は、池谷訳、「天路歴程」新教出版社から)
この第三の段階は、こころの内はバンヤンが記したとおりですが、世の生活は、カナンの地を戦って領有するのに似ていて、もう少し説明を要するでしょう。
いずれにしても、クリスチャンの生涯を三区分することを、バンヤンも支持していると考えられます。