同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 自分自身を治めること —

ayumi-san

山田 行

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
 (コリントⅡ 4:16)

 この4月で53歳になりました。誕生日を迎える度に胸に手を当てて自分の人生を振り返り、神がここまでこの小さな者と共に生きてくださったことを一つ一つ思い巡らし感謝しております。
 今年示されていることは、自分は周りの人を治めることには熱心で気になるが、自分をきちんと治めることが出来ているか、ということです。
治めるということは、神の権威の前に自らを従わせ続けること、揺れ動くことなく優先順位を守り忠実にことをなすことだと思いました。
 礼拝のメッセージで「信仰の練達」と題してアブラハム、イサク、ヤコブの生涯を通して語られています。
それぞれの信仰者が信仰の継承に努め、取り巻く人々や起きてくる問題課題に振り回されつつも、神の干渉と導きの前に謙って従い続けている姿を見ることが出来ます。
 私自身の小さな歩みを振り返る時、大きな問題というよりは日々のささいな出来事の中に、自分の考えを押し通して従うべき時に従えなかったり、いらいらしたり恐れたり、感情が上がったり下がったり、目に見える様々なこと聞こえてくる様々な情報に揺れ動く者だということを思い知らされております。

 そんな時「主よ。どうぞ私の心をあなたが支配してくださり、自分ではコントロールできないこの感情を治めてください」と、どこにいても一言祈りました。
また、そういう時に口から出る言葉には気をつけるよう心がけました。時には隣人に「支えて下さい」と言葉にして伝えるようにしました。

 しかしこのようなことを何歳になっても続けているのではなく、信仰の練達や成熟を勝ち取り、どのような中にあっても主が共に生きてくださることを信じ切って平安の中を自由に喜んで歩みたいと願います。
 現実の自分はまだまだ弱さがあり、すぐに自分を治めて生きられるわけではありません。
信仰の課題に心を向けながら、冒頭の御言葉のように勇気を失わずに日々新たにされて、今日神が私に何を求めておられるのか、この一年何を成していかなければいけないのか、祈りつつ思い巡らしております。
思わされることは、具体的に生きる中で隣人の必要に十分応えられているか、教会で与えられた奉仕を心から行っているか、福音の種をきちんと蒔いているか、などです。

 そして今年、教会から新たに一人の若い姉妹が献身を願って、学びと訓練のための学校へ出発しました。
勿論本人の信仰告白があってのことですが、その両親や家族にも大きな覚悟と同じ献身の思いがなければ送り出すことは出来ないでしょう。
その姉妹の一途さと御家族の決意と信仰を尊敬し、教会全体でもこのことを喜びとして更に共に立ち上がろうとしています。
勿論私も少しでもお役に立ちたいと望んでいます。
 私の残りの人生が何年与えられるかわかりませんが、神とともに最後まで多くの時を過ごし、祈りによって強められ、自らを治めながら、神の必要に間に合うものとして歩ませていただきたく願います。
(仙台聖泉キリスト教会会員)