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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告—84

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 10章

 サムエルの時代はペリシテという強い国との対峙が始まっている。イスラエルの民に王が建てられ、一致してそのことに当たっていくことが求められてきている。
 しかし、彼らは王が神より与えられる前に自らだまし討ちと言う形で得ようとしてしまった。もちろん神はそのことが有りながらも民のために王となるサウルを用意しているのである。

 この時代の価値観は長と呼ばれる責任を負う人物のそれによって決まり、そのリーダーシップによって作られている。現在も同じで、人々は自らの価値観にあった人物を選ぶことで政治が進められているのである。
 私たちも神の一貫した御心に倣い、価値観を構築していく必要がある。神は見えないようななかでも信仰者に成功を導いてくださるのである。もちろん神は御心のゆえに何らかの苦労を味わうことも求められる。しかし、その中に有っても自らの忠義を尽くすことが信仰者の姿を世に表すことにもなりうるのである。
私たちはどの時代にあっても神の御心を探り、生きていく必要がある。

 サウルは前半サムエルに導かれ、油注がれたように、言われたことを実行していく。ここでは神がサウルを王として選んだのだという事実を表しているのである。彼は神に選ばれた王として神に従い歩みだしをしていくためでもあったのである。神はそのためにサウル自身が理解できるように、様々なしるしとしてサムエルからこれからの予言をなしているのである。

 サウルはこれから神が彼を選ばれたこと以上に、民に選ばれることを望んでしまう。それが彼を破滅へと導いてしまうのである。
 しかし確かに彼に神の選びの素質があったことは彼の息子ヨナタンを通して知ることができる。サウルは自らの息子ヨナタンに信仰やそのために必要な部分を確かに教え、育てていただろうと感じられるのである。

 今日開いた聖書の中にも彼のその素質が垣間見える。彼は自分が王になるのが分かっていながら、そのことを大きな声で語るのではなく、あくまで謙遜を貫きその時が来るのを黙って待っていた。


Q:「神が私たちの中に形成する愛が、私たちを寛容にする」と語っておられましたが、神が与えてくださるものと私たちが自ら形成するものの違いは何ですか。

A: 愛は人間すべてに共通し、巷にもあふれている。
 気を付けなければならないのは私たちが神を信じて行う愛や神が形成された愛を行使するか、それともただただ優しさや、自己満足、同情などによるものを用いるかで結果的に表れるものが全く異なる。神の正しさや、聖きを損ねたり、神が教えてくださっている私たちの生き方を曲げるようなものは逆効果なのである。
 サウルを取り上げるなら、彼は民を全て受け入れようとした。本来ならば神の御心は何か伺いを立てなければならなかった。寛容も神の愛から出るものでなければならない。サウルのように民の人気を得るための寛容は神が形成したものとは言えない。
 子ども達に対する寛容も神の愛や赦しが取り上げられるのでなく、世の中の体裁などを取り上げてしまっていては問題なのである。
 サウルの場合は王としての責任だったが、私たちは王ではないからその責任はないという事ではなく、私たちの場合は身近な責任を持っている子どもや部下や、そういう人たちのことなのである。
神は私たちにその愛を実行する順番をまず教えておられる。それは摂理によって自らの最も愛を行うべき人々を家族として神が与えてくださっているからである。だからこそ、家族を蔑ろにして他人に愛を行っていては神の与えられた責任を放棄していることになるのである。私たちは神を信じているという事だけでなく、神によって形成された愛をどのように行使していくのかが大切になってくる。


Q: ヨハネの福音書21章15-17節の中で「子羊」と書かれている部分と「羊」と書かれていることの違いは何ですか

A: イエス・キリストが本当の愛を知ったペテロに対して語っている部分である。というのもペテロはイエス・キリストの自己犠牲の愛や、「3度私を知らない」と言うペテロに対してであっても彼のために祈っていた愛の姿を知っているからである。だからこそその愛を他者のために用いていくことが出来るように語っているのである。私たちは自分を愛してくれる人を愛しますと言いやすい。しかし本来福音は自らに愛を返してくれなくても愛する必要がある。あなたの娘をまずあなたは愛し続けなさい。そしてその愛に気づいて愛を返したいと娘が意志するなら、次にあなたの隣人を愛しなさいと言えると良い。すると愛された側がしみじみとその愛に気付き、相手を愛することが出来るし、その愛を自らの隣人にしたいと思うのである。そしてどんどんと愛が連鎖していくのである。愛されることを経験すると私たちの価値観や世界観を変える。そして相手が変わったことで自らもその愛が結んだ実(結果)を見ることが出来き、さらなる喜びとなるのである。


Q: サムエル記Ⅰ 10章27節で「しかしサウルは黙っていた」の彼の心情はどの様なものであったのでしょうか。神の導きに任せようとしたのですか。

A:これが彼の寛容さである。彼はすでに王としての権威があり、裁きを行うこともできたにもかかわらず、彼が寛容にことを過ごしていたのである。
 一面では彼の良さとしてここでは書かれているけれどこれが彼の傾向性であるともいえる。神を蔑ろにしているという事実を取り上げ、怒り、裁きを下すことも必要だったが神の霊が降って今までの彼ではないなかで御業が示されようとしている。  サウルの家のしもべは予見者を知っていたが、彼は知らなかったことから彼が霊的営みに無頓着だったといえる。そんな人物が神によって選ばれ今、王として整えられようとしている。神が許されたから全部大丈夫かと言うとそうではない。神が行われることは完全であるが、私たちの行いはその完全をも崩す可能性がある。それだけの自由が与えられているのである。だからこそ私たちはそこに大きな責任を負うし更に良きものへと努力し働くからこそ、その報酬を受ける。
 私の子ども達は最終的な決定を自らで行うことをひどく恐れている。だから「どう思いますか。決めてください」と私に願う。責任がその決定に伴うことを知っているからだ。もちろんあなたが決めなさいと迫らなければならないときも来る。しかし、それまでは親の責任のもとで行っていくことが必要だと言える。
例えば、ある問題が起こった時、親(責任者)は子ども(部下)に対して、「あなたがこの問題にあたりなさい」と指示を出す。この時、子どもが失敗しても任せた親に責任があるのである。なぜならその問題を任せたのは親であるし、そのような問題にあたれる様に子どもを育てる責任が与えられているのも彼だからである。しかしことを行うことが出来れば、子どもは自信を得ることもでき、次に同じような機会が訪れ、責任を取ってくれる親が身近にいなければ自らの責任のもとで行わなければならないときにその壁を乗り越えることが出来るのである。本来そういうことは私たちの生活の中で日々淡々と行われている。私たちはこの淡々とした営みを神の御旨の中で行うことによって自分自身を整えていく。その個人の営みが水面下できちんと行われていることによって家庭や教会が霊的に守られている。


Q: 先日の礼拝の中でパウロが堕落していたコリントの教会を愛していたことが語られていましたが、それは一部でも救われていた人がいたからですか。

A: 私たちが愛を持って信じていこうとしないと相手は変わっていかない。相手がどうであれ自らが信じてかかわる必要がある。誰かこの人を愛してくださいではダメなのである。
 パウロはコリントの教会の人々がどうであれ愛し、信じていこうとしているのである。そしてそれ故に祈るとき彼は自らの愛の原点であるイエス・キリストが罪深い自らに表れてくださったことを思い出すのである。信仰者を迫害し続けた自分自身でさえも導いてくださったと彼が考える時、彼は同じように愛そうと思えるのである。どうすれば相手を導けるかという方法ではなく、まずは愛そうという信仰に戻ることができるかが大切である。それが出来れば相手がいかに自らの愛に対して悪を報いても愛していけるのである。
 ある姉妹の家庭では高校生の娘にスマホでグループlineは教会の人以外を禁止している。それは不備がない様に親の責任のもと守っているのである。もちろんそのことを家庭の中で話し合いながら決めている。しかし子どもも完全な納得のもとでしているわけではない。それでも、彼女の親はそのことで彼女を守ろうとしているのである。彼女は自ら親になった時にその本当の意味を知るのである。そしてその愛に気付くことが出来るのである。厳しさは相手に嫌われてしまう。理解してもらえないことも多くある。愛を貫くことは大変難しい。だからこそそばで「解ってるよ。あなたが相手を愛していることは」と言って声を掛ける人の存在も必要なのである。


Q: ヨハネの福音書の1章48節で、ナタナエルがイエス・キリストの一言で信じるようになったのはなぜなのでしょうか。

A: 彼を変えるだけの力がその一言に有ったからである。彼の人生はこの後、イエス・キリストの弟子として変わっていく。私たちはこのようなことと共に御言葉や他者とのかかわりの中で神が私たちの人生に変化を与えて、舵取りをしようとしてくださっていることが感じられるのである。
 ある兄弟の話であるが、その兄弟は月曜日の夜、出荷する仕事を終える為、土曜日の夜から日曜日の明け方まで残業をしていた。そのことは彼にとって大きな決断だった。そしてその決定の故に日曜日の朝の礼拝でお祈りを司会者が指名しようとしていたが、彼は出来るような霊的な状況ではなかった。そしてその故に司会者はまだ若いが祈れるほかの兄弟を指名した。しかし礼拝後教会の老牧師は、「祈れることと、イースターの重要な朝の祈りを任せられるかは別である」と司会者へ声を掛け、適切な指導を与えた。司会者はその話を受け、もう一度始めに祈りを指名しようとしていた兄弟の所へ行きその話を告げた。この兄弟からこの一連の話を聞いて私は彼にそれこそ神が干渉しておられることだと告げた。あなたの土曜日の決定に神が応えてくださっている。そういうことを神はなさるのです。その決定が良いにしても悪いにしてもそこにあなたと神の関わりがあるのです。その関わりによりその出来事は私たちの中に強く残るものとなっていく。わざわざ老牧師から司会者、司会者から兄弟へと二重の手間がかけられている。そのようにして神は干渉なさる。そういうことを私たちはきちんと捉えていかなければならない。また次にそういう機会があったときに自らに与えられた神の干渉を豊かに認めて決定を行っていく。それが続いていくと神とのかかわりの記録が残っていき神の御意思が解ってくる。またその記録を次の人格に伝えていくことで記録が途絶えるのではなく続いていくものとなり、それは私たちの人生を神の御意思と共に歩むということで守っていくものとなる。


Q: 先日のイースターの礼拝でキリストと共に共感する人格が必要であると語っておられました。しかし生活の中で共感していくことの難しさを感じるのですが、どのようにしていくことなのでしょうか。

A: 私たちが他者に関わる際に神を覚え、神がどう感じるかという事を考えていくこと、神の感覚を捉えていくことが必要なのである。
 永遠はどのようなことなのだろうと考えるときに私はキリストと共感していることなのではないかと考える。キリストは人格を持ち、共感できるような状況を作り出している。それは神の絶対性を捨て、子なる神として地上に現れてくださったのである。三位一体という形というものを表してまで神に人格はあるのだと示している。なぜ神がそこまで人格というものを強調しているのかというと「共感」であると言える。最初でも語ったようにキリストがペテロにいわれたのは私がその仕事に任命することによってどれほど愛しているか、信頼しているのかを感じて見なさいと言われている。責任を負ったり負わせたり、信頼したりされてみたり、そのような関わりによって共感は育まれていくことが出来る。夫婦の愛は共感によって豊かになっていく。その感覚をきちんと捉えていかなければならない。愛とは共感することであると言える。ともに泣いてくれる。自分のために自分以上に怒ってくれる。それはなんと幸いなことでしょう。
 キリストは彼の所に救いを求めに訪れた人々の苦難をまず豊かに受け入れ、神の愛と恵みを持って慈しみ全存在を持って共感して下さった。人格の真の救いは神の大いなる全能にあるのではなく、その魂の存在を愛おしんで下さる御心にある。ライ病人の願いに対して「わたしの心だ。きよくなれ」と言って優しくさわって癒して下さったキリストの心を、私達も持たせて頂きたい。

(仙台聖泉キリスト教会会員)