同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 静かな風 —

miwasan

石井 ミワ



「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
(ピリピ 4:6-7)

 学生時代の恩師、片岡伸光師の召天の報をお聞きして数年経った頃、奥様の書かれた「静かな風」という本を手にしました。片岡師とは、一度メッセージを聞き、一緒にぶどう狩りに行ったというくらいの交わりでしたが、私の学生時代の思い出として色濃く心に残っています。「静かな風」を涙しながら読み、それからこの本は私の独身時代の座右の書となりました。独身時代、こんな結婚生活をと願い、色褪せるまで読んだこの本を、先日書斎で発見し、約10年ぶりに読み返してみました。

 「静かな風」の冒頭に、「私たちの生活の中に、偶然ということはあり得ない。日々起きるすべての出来事は、神様のお許しの中で起きている。一通の手紙も、思いがけない電話やメールにも。神様は介入していてくださる。じっと耳をすませ、私の内にいてくださる主に聞いていくこと。主が私のために整えてくださった世界を見直してみること。日常の中でそんな時間を大切にしてゆきたいと心から願っている。」という一文があります。読みながら、私もそんな時間を大切にしてゆきたいと再び願わせていただきました。
 昨年後半、娘の小さな祈りが、その思いをはるかに超えた形で聞かれ、娘とともに感謝した出来事がありました。娘はこう言いました「光明先生の祈りを聞いてくださった神様は、私の祈りも聞いてくださったんだね。神様っているのかなあと思ったこともあったけど、本当にいてくださるんだね。」
 このことは日常のちょっとした変化と言う人もいるかもしれないような出来事でしたが、しかし、そこに神が確かに働いてくださったことを、娘が捉えることができたこと、私もそこに、ともにいることができたことを心から神に感謝することができました。
 教会の講壇から語られたメッセージからも、自らに備えられている隣人の背後にいらっしゃる救い主を見ることができるかを問われました。また、言われたことや起こってくる出来事に戸惑い、慌てて心揺るがされてしまうのではなく、「"私"はこの人に、この出来事に、どう関わるのか」をよく考えて行っていく大切さも学びました。
 まだまだ拙い歩みのなかですが、新しい年になお、静かな風のうちに日々主を見ることができるような歩みを、家族とともにさせていただきたく願っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)