同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— テモテの割礼 —


「腑に落ちない」ということばがあるが、私にとって、長い間その腑に落ちないことは、パウロがテモテに割礼を施したことであった。
「パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。」(使徒 16:3)

 パウロはガラテヤ人たちにこう書き送っている。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」 (ガラテヤ 5:1-4)

 それでこのふたつのみことばを並べ、「なぜだ?」と考えざるを得なかった。

 ユダヤ人の男が異邦人の女と結婚した場合、その家庭の子どもはユダヤ人と認められなかった。なぜなら、本当に夫の子を産んだと信用されなかったのである。
一方ユダヤ人の女が異邦人と結婚した場合、彼女の産んだ子は、ユダヤ人と認められたという。紛れもなくユダヤ人の血が流れているとして。テモテはユダヤ人の女の産んだ子、父はギリシャ人とはっきり分かっているので、ユダヤ人と認められるのである。
 その当時もそうであったか確かではないが、そうであればユダヤ人がユダヤ人の習慣として、割礼を受けたことに相当する。
 パウロはコリント人へこう書き送りました。「 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。」(コリントⅠ 7:18-20)

 パウロの意図は、「・・すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(コリントⅠ 9:19-22)
このみことばで納得しました。