同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 願うことと信じること —


 「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」ほとんど凡ての教会で、礼拝の度にこのことばが唱えられるでしょう。
確かに私たちは、神は全能であると信じている。

また、神は私たちにこう約束された。
「イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」」(マタイ 21:22)
私たちが信じて祈るなら、神はその通りにして下さると信じている。

 イエスは、こう約束された。
「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。」(ヨハネ 14:13)
それで、私たちは祈るとき、最後に必ず「イエス・キリストのみ名によってお祈りします。」という。

 私たちは祈るとき、神の前に「願い事」を並べる。どれだけ多くの祈り会に人々が集まり、祈りのテーマといって、その「願い事」を列挙し、皆でそれを唱えることであろう。
だが、どれだけの祈りが聴き届けられていうだろうか?神は約束を違えなさっているのか?
答えは分かっている。「信じて」祈っていないのである。そして、その点を追求することを恐れる。

自分の必要を祈ることでも、誰かが必要としている事柄について祈ることでも、それを客観的に観察してこう感じる。
「願うことは簡単だ。だが信じるということはなんと大変なことであろうか。」と。

 仏教を信じる人々も、神道にたよる人々も、「祈念の心」が大切なのだという。どこまでもそれは自分のこころに向かっていて、祈る相手(神)も、祈った結果(聞き届けられたか?)もお構いなし。それはどうでもいいのだ。自分の祈るこころがあればよしとする。
 私たちはそういう日本の風土に生まれ育ったために、クリスチャンである私たちにも同じ感覚があって抜けないのではあるまいか?

隣人が病気や様々な困難に遭遇しているのを見て、私たちは同情し、神がその困難を取り除いて下さるように願う。
そのために必要なことはただ一つ。
「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ 9:24)