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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-92

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 17章

  この箇所はペリシテとの闘いの話である。前回はサウルが失墜し、ダビデに油が注がれた話であった。その後のダビデはサウルの前で竪琴を弾く機会が与えられ、賛美をするものとしての賜物が目立つようになった。サウルはこの賛美を聞くことで心が癒された。そしてその時が過ぎるとまたダビデは羊を飼うという日常に戻る。そのようなことが何回か行われ過ぎていき、今回読んだこの時に至ったのである。
 ここに両軍が陣を敷いて相対している状況が語られている。そこにはゴリアテと言う人物が登場し、イスラエルを馬鹿にしていた。この時戦況はペリシテにとって優位にあったと言える。ペリシテにとって、このゴリアテという人物に代表戦士を委ね、イスラエルを馬鹿にさせてどんどんとイスラエル軍の勇気を奪っていこうという作戦だった。
 しかしこのことを見たダビデにとってはイスラエルが馬鹿にされたのではなく、イスラエルを導く神が馬鹿にされたのだと感じた。確かに彼の若さという姿はあったが同時に神と共に生き、その恵みを受けていたダビデの神を第一とする姿勢が周りの目にも明らかになったのである。これは神がそのことを良しとされ、信仰の勇者ダビデの姿を多くの人に表すことが御旨であった。
 私達は神を信じる信仰をダビデのように表すことが出来るかという事が大切になってくる。神の戦いのために立ち上がっていかなければならない。しかし神の御旨を第一にしていくことが大切とは言っても簡単にそれを行うことはできないし、信仰者であっても恐れに惑ってしまうことがある。苦しい時の神頼みと言うような信仰では勿論、役には立たない。そうでなくとも、あまりの困難さに信仰って言ってもそううまくはいかないと思う人もいるだろう。しかし神の御旨の中に生きるならば、その恐れは本来なくなっていく。これは自分にはできないかもしれないと困惑する必要はない。なぜなら、それが神の御旨だと信ずるからである。
 ではなぜ人は恐れてしまうのか、困難や壁にぶち当たって退いてしまうのか。それは人が自分を優先するからである。人間にはそのような欲が起こる。そしてその欲を御旨と混在させるなら、恐れが私たちを襲う時、持ちこたえることはできなくなる。神の御旨と称して自分の勝手を行う時、私たちの中に消化することの出来ない数々の課題が残ってしまうのである。それが真に神の御旨ならば間違いなく行われるが、私たちの勝手は神の御旨に沿わないので、決して叶うことが無いからである。だからこそ、かなわないその勝手な思いが私たちの中に超えられないものとして残り続けてしまうのである。
 しかし、私たちが神を第一にしてことを行うならば、力みや恐れがなくなる。そして神が行ってくださる御業を見ようと信じて立ち上がっていくことが出来るのである。
 ダビデの心はその与えられた御霊によって支配され、「兄が何と言おうと、神が私にこの現状を知らせてくださったのだから」と敵に対する怒りと共に神の戦士として立ち上がっていった。
 私たちも神の道を進むのだという思いを持ち、神によって恐れを取り除いていただいて、神の戦いを戦い抜いていきたいと願う。
 この出来事の後、ダビデの姿は信仰的に弱っていたサウルの目にも止まり、感化を与えている様子が見られる。もちろん完全なる改心が導かれているわけではない。しかし感化を受けている事実が表わされている。もちろん信仰を回復するまでには至っていないが、この事実は、私たち信仰者の行いが信じていない者に感化を与えることを示している。だからこそ私たちの歩みも神第一でありたく思う。周りの人々と何の違いもない信仰者ではなく、霊的感化を与えられるような信仰者となっていきたく願う。


Q: 先日、礼拝で語られたイサクとリベカのことなのですが、「リベカは本来ならばヤコブが神の祝福を受ける存在であると導かれていることをしり、またイサクもそのことを知っていた。しかし、彼はヤコブではなく、エサウに祝福を与えようとした。それを知った彼女は知恵を用いてその問題を解決してしまった。リベカにとって問題だったのは神に頼らず、自分勝手にことを行ったという捉え方でよろしいのでしょうか。

A: 先日の礼拝では、誰がいいとか悪いという事を語ったのではなく、信仰者それぞれが主観にとらわれ動いているとどうなるのか。そのような状況だったからこそ起こった不備であるという事を語ったのである。この時に必要だったのは主観で誰かを責めたり、文句を言ったり、自分で動くことではなく、ただ神の導きを待つ必要があった。  質問されたような捉え方はともすると、相手の悪いところを上げる材料にしかならない。リベカがこう動いたから悪かった。いやイサクがその前にきちんと対処していればリベカがこの様な事をすることはなかったなど、それは結局主観的捉え方である。  先ほども言ったように、ここでの正しい働きは誰かを悪者にすることではなく、霊的感化を相手に与える様に最善を願いただ静かに神の働かれるのを待つことが大切だったのである。  主観が私たちを阻むとき私たちは勝手な行いをしてしまうのである。イサクは目が見えなくなったときに勝手に死ぬかもしれないと思い、あてつける様に自分が好むエサウに祝福を与えようとしたし、リベカは今まで直接的には手を打たず、イサクを通してその問題にあたろうとしていたのに、ヤコブを呼んで、その祝福を奪うようにと強硬に出たのである。しかしその後、彼らはもたらされた結果に神のご意志を見出して冷静になって悟ったのである。だからこそヤコブにパダンアラムへ行き、そこで妻をめとるようにと働いていったのである。  私たち信仰者にもこのようなことがある。そこでイサクたちのように悟って、主観から自らを解放して考えていかなければならない。悟らず更に主観で動いて、誰かのせいにしてしまうようでは、結局解決することなく愚かを繰り返すだけなのである。家庭内では互いの距離が近いだけにそのようなことが起こりやすい。だからこそ、主観で動いてしまうことに注意すると同時に、動いてしまった後の神からの警告に気付き、恐れ、悟っていくことが大切なのである。


Q: 今日の聖書個所でダビデは主観から解放されているように感じるのですが、その要因、理由は何ですか。彼が家庭の中でそのような教育がなされていたという事でいいのでしょうか。

A: この結果を見るならば、そう考える以外ないと思う。ベツレヘムという小さな町の中で、彼が霊的に恵まれていた理由を考えるなら、そのことが大きいだろう。彼の家系はルツ記のボアズの姿を見るときに、信仰面で優れていたとは考えられる。きちんとした宗教的教育の場が供えられていたのではないだろうか。それはただの考察の材料でしかない。ダビデのそのような姿が特別だったとして自分とは違う特別な人として考えては意味がない。そうではなく、自分の問題として考え、どうしてダビデがそのように生きられたのかという事を考察していかなければならない。彼はなぜ自分ではなく神のことを優先とした生き方、考え方が出来たのだろうか。彼が自分というものを捨てても神を第一としていたからと言うほかないだろう。私達は日々の取り組みの中ですら妥協して挑むのではなく、小さいことにもこだわっていかなければならないと感じる。以前の礼拝の中で私は善を持って悪に打ち勝ちなさいと言うことを語ったが、それを平凡な日々の生活の中で出来るかという事なのである。社会の営みの中や家庭の中にある悪と呼べるのかと思うようなこと、例えばさぼりとか、あてつけとか、ちょっとしたごまかし、そういうことに対して善をもって対峙していけるかどうかである。私は平日働きに出ているが、同僚が適当に仕事をして残りを押しつけていくことがある。その時に私はどうすべきか考える。それは彼の責任とほっておくこともできる。しかし、それでは善を持って打ち勝っていることにはならないし、変革は来ない。だからこそそのような状態の時に悪とは言えないような事がらに善を持って立ち向かえるかということなのである。しない理由はいくらでもある。しかしそこから逃げたり、イライラしたり、相手にあてつけていては結局、良い仕事はできないし有用なものにもなれないのである。こんな小さいことだからこそ、神のために働いていけるかという事が問われ、主の御業が行われる機会となり、それによって自分自身にも変革が起こるのである。


Q: レアとラケルの説教が礼拝の中でなされましたが、レアがヤコブを見て、その信仰の中に生きたと語られました。そしてヤコブによってレアを正妻としてマクペラの洞穴に葬られました。しかし彼女たちの子どもの中ではヨセフが神に選ばれているように感じられましたが、どのようにとらえるべきでしょうか。ヨセフが神の御計画として選ばれたという考え方でよろしいでしょうか。

A: それはもちろんそうだと思う。神の御計画の中ですべてが行われていた。礼拝の中でラケルが始め偶像であるテラフィムを持ち出したという事を取り上げたが、それゆえにその時ラケルがヤコブから完全に拒否されたわけではないし、またヤコブの家自体は偶像等が除かれて整えられていたわけではなかった。  しかしシェケムを出るときに神から示されたことでベテルに向かうときにすべてを処理してやっと整えられたのである。レアは着実に神を信じる信仰によってヤコブとの間に変革を得て、彼の愛も得ることになったのである。ヨセフはパダンアラムを出たころに生まれた子である。そして、ヤコブは彼を特別に愛していた。それは最初に愛したラケルの故という事はある。彼のみ長服を着せ、順番を度外視して長子としてそばにいつも置いていたのだろう。その故に彼のみに語られた言葉もあっただろうし、信仰が語られていたのではないかという事も考えられる。その面から見るならばヤコブの家もイサクやリベカと同じで、純粋できれいなものではなかったのである。しかしそれが本来家庭なのである。そして神は人間のそのような一面偏ったともいえるような行いをも用いられる方である。それ故にヨセフは選ばれて行ったともいえるだろう。しかし選びというものは決して簡単に幸せになれる道ではない。最後まで神を信じ、その召しに応え続けていかなければならないのである。ヨセフは特別視されていたがゆえにナルシストともいえるような性格だった。自分を特別に考える態度は兄たちの憎しみの原因となった。それ故に兄弟に売られた。そして行った先できちんと働いていたのに罪を着せられ、牢獄に入れられた。そしてそこでも夢を解き明かしたのにもかかわらず、直ぐに出してもらえなかった。ナルシストの彼がどんどんと落ちていった。人間的にいくとその状況でよく冷静な精神状況を保っていられたともいえるほどの落ち方であった。しかしそれが神の御計画であった。エジプトでイスラエル民族を大きく強くするために彼はこの道を歩む必要があったのである。エジプト人は羊を飼うものである彼らのことを忌み嫌った。しかし、ヨセフが外国人でありながらパロの夢を解き明かし、7年の豊作と7年の飢饉を予言しただけでなく、そこで対策を立てた。彼の立てた対策はとにかく7年の豊作の間に作物を蓄え、飢饉の7年でそれを必要なもの全てに売るという事だった。必然彼らは生きるためにエジプトの王のもとに食物を買いに来る。それでパロは多くの富を得た。しかし、彼らが受けたのは富だけではなかった。ヨセフは、払う金がなくなり、畑も家をも売り払ってしまった人たちに国のために働く場所を与え、何も払うものが無くなったものにも生きるために無償で食物を与えるようにしたのである。それで得られたのは、命を救われた人々の恩義であった。その故にヨセフの家族ならばとエジプト人に温かくヤコブやヨセフの兄弟、その家族は迎えられたのだ。そしてヨセフを知らない王が出るまで、エジプト人から隔離された中で一族が増えることが出来たのである。ここまでが神の御計画であり、ヨセフはしっかりとその召しにこたえることが出来たのである。


Q: 先ほど生活の中で意識して霊的営みをして、主観から解放されて行かなければならないと語られていましたが、そのようなことができるようになって、以前の自分に大いに失望することが有ります。しかし同時に、今までの自分の姿を振り返ってみた時に主観で生きていた自分の姿を恐ろしく感じる瞬間もあり、今ではそのことを示され、感謝だと感じています。

A: レアの話が先程出たが、彼女は父親に売られてしまったような形で愛のない結婚をしなければならなかった。しかしその中でも彼女はヤコブによって感化されて行った。同時にヤコブも愛することを控えなかった。その愛にヤコブの信仰を見出し彼女はその信仰をヤコブとの関係の中で育んだと考える。しかしその一方で焦りがラケルをおそうようになった。ヤコブはラバンによって騙されたことをレアにあてつけることもできた。彼女を愛さないという選択もあった。しかし彼は悪に善を持って打ち勝っていこうとレアを愛することに努めた。そのことがレアに悟りを与え、信仰を与え、その事が子どもの名前の付け方にも表れている様に、神への感謝へとなっていった。そしてそれは一面ヤコブをも変えるものとなり、レアはヤコブによって心から愛されるものとなった。私達は信仰による悟りを受けて初めて、様々な感情のしがらみから解放される。それには「知る」ことではなく、「悟る」ことが必要なのである。そしてそれが出来るならば、信仰者は自分に起こる不幸と言えるようなことも、過去に起こったこともすべてもう一度見つめなおし、感謝へと変えることが出来るようになるのである。これが大切な神との営みなのである。しかし悟ることが出来ないならば神への不平、不満となり、更には周りにもあてつけるようになり、その結果自分を孤立させどんどんと落ちていってしまうのである。だからこそ、信仰の実践を持って神の御手の中に包まれるように神と一つとなり、芯の通った真の自由を得た信仰者へとなっていけるのである。


Q: ヤコブにとって、最初の7年でレアを得て、その後ラケルを得たのですが、ヤコブはラケルが自分の好みだっただけで、ラケルのためだけに14年働くことが出来るのでしょうか。先生はヤコブのモチベーションは何だったと思いますか。

A: 私は愛だったと思う。神が結んでくださった人を愛していくことが出来る。私も自分の妻と本気で愛を育み、話し合い、取り組み続けて、彼女にその全権を譲り渡しても私の意に沿わないことは一つもないと言い切れるほどの関係を築くことが出来た。  神はレアとラケルとヤコブの三人の関係を良しとされた。そしてヤコブはその事を受け入れ、真実に愛をもって生き続けた。アブラハムもイサクも確かな信仰を持っていた。しかしそこから受け継げた信仰者は1人である。それにもかかわらずヤコブは12人もの子どもに信仰を受け継がせることが出来た。これは彼への神からの大いなる祝福だったと言えるだろう。


Q: リベカはイサクの結婚相手として選ばれたときの出来事を振り返ると、彼女には神の御心を捉える力が有ったことを感じられたのですが、なぜイサクとリベカとの間で問題が起こってしまったのでしょうか。

A: 神の御心を捉えることはできる。しかし私たちがそれからどのように実践していくかが重要である。神の意志に混ぜ物をしないで御心を行っていくことが大切なのである。彼女はイサクに対してきちんとヤコブが約束の器であると示せばよかった。しかし、まるでイサクが出来ていないことをあげつらうかのように、私しかこのことをいさめることが出来ないと勝手に動いてしまったのである。確かに彼女にとっては理由が通っただろう。しかし、理由はどうであれ、聖書には「だまし取った」と書かれているのである。  ヨセフは7年の豊作と7年の飢饉を神から示された。同時に対応することが求められた。しかしそこからどのように動くかはヨセフ次第だった。そして彼はその事がなると信じ、豊作の7年で国の財源をすべて使って穀物を安価で買いあげた。しかし、そのことを信じないで、もし7年と言われたけれども、もしかしたらもっと早く終わるかもしれないと思って妥協してしまえば、7年の飢饉で多くの財源をエジプトに集中させることは出来なかったし、多くの人の心を得ることはできなかった。しかしヤコブは神の御意志を聞くだけでなく、神の働きを成そうと真実に歩んでいった。そのことが大切なのである。  この教会に家庭が与えられている事、クリスチャンホームがどんどんと立ち上がっていることを感謝している。夫婦の間でどのような交わりを持っていくか、互いの間に神を置いて、真実に歩み、豊かに愛を育み続けていって御旨を実践していただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会会員)