同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 説得と洗脳 —


 教会外の・・信者でない・・女性(Aさんとしておこう)・・が加わった話し合いの時があった。
「救われた経験」が話題となり、参加していた姉妹が、私は不信者の男性から求婚されて、教会に残るか、教会を去ってその男性のもとに走るか判断を迫られたときがあった。私は教会を選んだ。そして救いの恵みに与ったとお証しした。
 それに対してAさんは、それは洗脳されたのだという。
 悲しいかな、近年、キリスト教系のもの他の宗教の系統のものいろいろあるが、異端、カルトと呼ばれる集団が世にはびこり、そのニュース世に広まったためか、宗教に触れると、洗脳され、その集団の奴隷状態にされてしまうという恐れが行き渡ってしまったように感じる。
 キリスト教は、社会が悪い、自分を取り巻く環境が悪い、それを是正して、困っている人を助けようというところからはじまるのではない。自分のこころに向きあう、こころの問題から始まるのですよと、話しても、Aさんのこころは閉じていて、それを考えることが全くできないのである。
 先に述べた姉妹のお証しで重要な点は、「自分が教会に残ることを選んだ」という主張である。だがAさんはそれを納得できないのである。
 この「自分で決める」ということは、キリスト教のもっとも重要なことがらである。
 もちろん、誰かが誤った方向に進んでいこうとしているなら、その人にこちらに進むべきですとよい方を教え、説得する。 誤った方向に進んだ場合の損失、無駄な人生を送ることになることに対する警告もするだろうし、よい方を選んで進んだときの神の下さる恵みも語るだろう。 だが意志決定は本人にしかできない。子供が成人に達するまでは、親の力で強制的に何かをさせることもある。しかしそれもいつまでも続きはしない。やがて本人が決めるときが来る。
 洗脳し、本人が意志決定することができない状態にさせたなら、もはやそれはキリスト教ではない。
 パウロの手紙には、なんと繰り返し「あなたがたにお願いします」ということばがでてくることであろうか。
 彼はピレモンにこう書き送っている。
あなたにお願いします。オネシモをあなたの兄弟として迎えてやって欲しい。それは、「あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。」(ピレモン 1:14)
 神は私たちが強制されて仕方なしに行うのではなく「自らすすんで行う」ことを望み、それだけを受け入れてくださる。