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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告—83

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 8章

 サムエル記には神がどのような方で、私たちはその前にどのように生きるべきか、という事が描かれている。
 この箇所で彼らは一つの国民となった。個人であれば、神を信じ、神と共に生きることが出来る。しかし一つの集合体として形成されたとき、彼らは集合体としての価値観を持たなければならない。それは個人と集団の価値観が合致している場合と差が大なり小なり、あるという場合がある。だからこそ集団の中に自分がいる事を認め、集団の価値観に自らを沿わせていく必要がある。もちろん、自らの価値観に合わないからと集団を出ることもできるが、協力し、集いの中でこそ人は成長することを認め、自らをその中においておくという選択も大切なのである。経済は人をそのような集団に生かしたり、置き続けたり、コミット(積極的に)したり、役割を果たしたりと集団の中で生きていくツールを生み出しているのである。
 自分があたかも集団を動かしていると勘違いをして、自分の価値観が通ると思っている人たちもいる。それぞれが考えを持ち、ぶつかり合っているのがこの箇所である。イスラエルの民は神という方がその権利を有しているにもかかわらず、神を退けていた。そのため神の意志を伝えていたサムエルが悩み続けている現実が書かれているのである。しかしサムエルも自分の息子を律することが出来なかった現実もあり、イスラエルの意思を統一する王が建てられていくのである。神ご自身が王の立場を取り、民を率いていたのにもかかわらず、その権威に気付かない民は、たとえ、人の王が建てられようとも気付くことはない。そのように神はサムエルに示しておられるのである。また王自身が間違う可能性もあると警告しているのだ。
 神は「私を信じ、私の価値観をあなたのものとしていきなさい」と語り、日々、色々なものを通して働き掛けてくださっている。私たちは個人的な信仰生活を神の価値観をもち歩むとともに、集いの中でもそれらを発揮していくことが求められている。それは一人一人が抱えている問題に直結したものではないかもしれない。しかし、それでも集いの中で共に問題に立ち向かい、生きるときに、神の恵みが集いを通して、私たちのものとなる瞬間が訪れるのである。私たちはそのことを数え、信仰生活を豊かに持たせていただきたく願う。


Q:サムエル記の8章で言われているように、人々の考えが衝突する瞬間があります。長はどのようにして、自己主義にならずに導いていくことが出来るのですか。先生はどうしていますか。

A:私の語ったことは集いや家庭の中で私自身にも求められている。私は自分が超えてしまった問題を取り上げるのではなく、自分自身も当面している課題を取り上げてともに取り組んでいるのである。
長と呼ばれる人は一番弱い人たちを意識できるかが大切なのである。弱い人とはどのような人かと言うと、周りから様々なものが寄せられ、すべての人が無意識の中で当たってしまう対象となってしまう人のことである。それは子どもや、病んでいる人、悩んでいる人たちである。長の役割はその人たちのたまった不満や、様々なものを取り上げ、フォローをし、助けていくことで集いを円満なものとしていくことなのである。
ある日の礼拝の献金できちんと礼をしなかった子どもを父親が叱っている姿があった。しかし、その父親は私に自らもできないことが有り、悩み、自分には叱る資格がないと感じていると語っていた。私はその時、彼に小さな取るに足らないことにも悔い改めをきちんと行うようにと告げた。なぜならその悔い改めの姿は子どもの目に確かに映るからである。どこか取り繕っているような、うまく生きているような人は身近なものに、つまりは子どもに見破られてしまうのだ。それは親を馬鹿にする、不信感を持つ原因となるのである。だからこそ子どもに悔い改めて真実に生きる姿を現していく必要が重要である。子どもは「何時も悔い改めばかりして」と親の姿を見ているかもしれない、しかし、子どもが成長する中でそれがいかに真実で神の前に正しい姿であるか、恐れて信仰に歩んでいるかに気付くときがくる。そしてその姿に尊敬を抱き、自らもそのように生きようと取り組んでいくようになるのである。


Q:先日の礼拝でリベカが取り上げられ、「リベカが水の管理を担っていた」と語られていましたが、それは一般的なことだったのですか。

A:アブラハムはカナンから嫁を取ることを良しとしなかった。アブラハムは自分の親戚が住む(つまりは自分に近い考え、信仰を持っている)ハランから嫁を取ろうとした。アブラハムはきっとハランの文化や文明を知っており、水の管理を行っているという事から、水を運べるような若い女性を目指して、任ぜられたのではないかと考えられる。族長の娘の立場として仕事を放棄してしまう場合も考えられるが、リベカはむしろ族長の娘として、働きについていたと考えられる。
子どもを賢くしようと考えるなら、仕事をさせることが一番である。知識だけでなく、我慢強さや先をみて展望していくことなどその子どもの力が見えてくる。人は自分の仕事を価値高く評価し、他人の働きを低く評価し見下しやすい。だからこそ神を畏れ、その中で自らの力をもう一度図り直し、謙遜に歩むことを意識していく必要がある。それを子どもに実践を通し教えることで、自分の働きを正しく評価するとともに、周りの人の働きにも目を向け、正しく評価できるようになるのである。


Q:アブラハムは僕に丸投げでなく、指示を出し、その使命(イサクの嫁を探し当てる)を託した。アブラハムが僕とのかかわりの中で、彼を訓練したことで、信頼を抱く人物となりえたのですか。

A:この僕はアブラハムの財産を管理している中で一番年長のもの。それを彼が育てたかという事は分からないが、関わりの中で、アブラハムと共にことを行っていたと考えられる。また、アブラハムがこの役目を果たすことの出来る人物と考えて、この僕に仕事を託していることは事実である。アブラハムがキーポイントとなる所を指摘して僕を送り出しているが、全くそのことを指摘しなくてもことをなすことができたかという事を考えることがこの箇所を読み解く際に必要なことではない。アブラハムは神がこのことを良き道へと導いてくださることを確信していた。しかし、与えられることが決まったからと言って何でもかんでも適当に行っていてもいいかと言うとそうではない。アブラハムには信仰によって神の導きを信じ、自らの力を尽くして、ことを慎重に進めていくことが求められていた。信仰は信じてことを行う力を得ることが出来るが、一面信仰によってなんでも良しとしてしまう場合がある。信仰と言いつつ、世の中の神頼みと何も変わらない、自らは何もせず求めてばかりいることがある。信仰でことを行うとは、何も考えずに表明ばかりしているのではなく、様々な工程を捉え歩み、信じて神が何を行ってくださったのかということを整理していくものなのである。そこにはストーリーが存在し、始めに決意し、信仰によって我慢や、遜り、など様々なことを乗り越え、最終的に結果を残す、実を実らせるその瞬間を迎えることが一連の流れの中で行われるという事なのである。私たちの証も同じでストーリーが有って初めて成立し、自らの信仰を他者へと表すことが出来るのである。自らの力ではなく、どのように神が働いてくださっているのかを伝え続けることによって、他者によってあの人の信仰はこうだと表されるようになる。これが私たちの目指すべき信仰の標榜なのである。


Q;価値観の違いにストレスを感じるのですが、どうすれば良いですか。

A:今はそのストレスの中に生きてみるといい。人間には程よいストレスが必要なのである。私たちには信仰によってストレスを管理できる力がある。御言葉や讃美歌、教会生活、信仰の友が私たちのストレスを軽減したり、足らない場合はストレスを掛けたりする。それは私達に耐性をつけ、今までひどいストレスに感じていたものがそこまで感じなくなるのである。


Q:当時(サムエル記8章)の宗教と政治はどのように役割分担がなされ、役割を担っていたのですか。王は必要な存在だったのですか。

A:時代的に必要だった、軍事的に必要だったという事はあったが、そこには礼儀や秩序を知らず、神という方を畏れずに行うような求め方がなされた。サムエルを通して神をだまし討ちにしているのである。神と対峙し、神との関係の中で求めることと、このように民の勝手の中で求めることとでは同じものを得ても、使い方が変わってくるのである。お金を働いて手順を踏んで稼いだ場合と、ぱっと湧いて出た様にお金を得た場合と同じである。手順を踏めば、その苦労などから、正しく価値があるものに使おうと考える。しかし、急に手に入ってしまったというような状態でお金を得れば、好きなように、よく考えずに使ってしまうだろう。私たちの教会で、携帯電話を高校生まで持たないようにしようと取り組んでいた。子ども達はそのことにだまし討ちをかけてくる。しかしそれに負けず、信仰と知恵を用いて、子どもたち自身が、考え、その時に得られるようにと働きかけていくことで子ども達との間に手順を取ることを教えてきたのである。
神との関係がきちんとできていると神にだまし討ちをし掛けようなどとは考えない。距離があいているからこそ、世の中の誘惑や、雑音に惑わされ、だまし討ちをかけてでも手にしたいと神にそのような行動をとるのである。私たちは自らも、そしてさらにその先、自らの子どもにもそのようなことが無いように気を付けていけるようにしていかなければならない。


Q:創世記のヨセフが末の弟を連れてくるようにと言ったのにはどのような意味があったのですか。

A:ヨセフは兄弟が心の中で自らを売った問題をどのように扱っているか、悔い改めているかを見るためにこのような働きかけを行っていた。私は悔い改めを兄弟がして、エジプトの地で大いなる国民となることをヨセフが神のビジョンとして抱いていたと考える。ヨセフはある程度の地位にまで至った時に故郷に帰ることもできたが、イスラエルがエジプトへと移り住み、生き生きと暮らせるようにすることが自らの使命であると考えていたために、その時が来るまで待っていたのである。また、ヨセフは7年の豊作、更に7年飢饉が来ることを信じ、エジプトのすべての財産を使ってでも穀物を集めた。これは7年の豊作はもちろん、その先に飢饉が来ることも信じ、やりぬかなければならないと考えていたからなのである。しかしヨセフはそれだけで良しとするのでなく、兄弟が悔い改めを通して、一つの集いとして、結束できるかを図ったのである。そして同時にヨセフと父親の偏愛という全く同じ状況にあったベニヤミンを用い、再びその過ちを繰り返すことが無いか試しているのである。
神はこの出来事のように同じ状況を用意し、もう一度悔い改めたところを突いてくる瞬間がある。だからこそ、同じ過ちを繰り返すことが無いように注意していかなければならない。赦されたからと侮っていると、再び過ちを繰り返すことにつながるのである。もちろん赦しを請い、悔い改めれば神は赦してくださるかもしれない、しかし、侮りの中にあれば、その結果はやはり刈り取らなければならないのである。


Q:リベカが行っていたように、相手とそのラクダ10頭のために水を与えることが出来ますかと礼拝の中で語られ、私は自らの娘にその問いかけを行いました。しかし、同時に自らも出来るかと悩み、その難しさに考えさせられました。どのようにして行っていくことを教えていけばいいのでしょうか。

A:婦人伝道師が先日、体調を崩して苦しんでいた方のためにお見舞いを用意してその家族に渡していた。相手が求めているものを言われずとも察知して彼女は用意し、動いていたのである。そのことを私の娘は、母親が本質的に持っている性質なのか、駆け引きの中で身につけたものなのかと私に尋ねてきた。それに私は本質だろうが駆け引きだろうが、そのことが出来るかできないかが大切なのだと答えた。結果的に求めに答えられたか、その時に働き掛けることが出来たのかが何より重要なのである。
だからこそ私は今、教会の若い人たちがそれによって徳を与えることを教えている。彼らがやりたくないと思うようなことでも、これをしてごらんと言い実行させるようにしている。それは私が経験の中で見つけた、人からのポイントを稼ぐようなことであったり、他者から喜ばれることである。しかし、今私自信が行ってしまうといかにもこれ見よがしになってしまうので若い人にそれをゆだね、やってごらんという事で子ども達がその中で感謝の言葉や賞賛を受け、評価の稼ぎ方を覚え経験していくことが出来るようにしているである。それは子ども達の中で生かされ、他者からの評価を受け、自らを成長させることが出来るものとなる。またそれだけで終わらず、その後、私と同じような年齢になった時に身近な子どもに行わせることで、従って行った子どもが他者から評価を得たときに、「あの人の言うことを聞いたからだ」と尊敬を受けることが出来るのである。


(仙台聖泉キリスト教会会員)