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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-90

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 15章

  この箇所はサウルが王位から退けられるという決定的な出来事が起こったところである。
  このところでサウルはアマレクの全てのものを聖絶するという神の裁きを通して、神の聖と義を表すことを求められた。また同時にこれは神からサウロへの全き服従の求めでもあった。しかし、彼はこのことを理解できなかった。その結果様々な理由を付けて、サウロは自分がしたい様にことを行い、本来ならば聖絶しなければならなかったものを惜しんで残しておいたのである。神はその姿をお許しにならなかった。そして彼は王位から退けられたのである。
 私たちも信仰者として神のみ旨に従って歩むことができるかが求められている。み旨を求めそれに従っていくことは難しい。しかし簡単ではないその道を歩むために私達には教会という群れが存在する。だからこそ群れから離れずに、その教えから知識を得て、実践していくことが必要なのである。また時には非人道的ともいえるような出来事が神から出てくることが有る。その時にも恐れつつ、神のみ旨とは何か、自分のしたいことをしているのではないか注意していかなければならない。そして同時に日々神の御心を伺いつつ、常に聖書を読み、説教を聞く中で神と自分の関係を考え続けていかなければならない。話を聞いても無頓着でいては意味がない。自分に置き換えて神との関わり方をどのようにしていくべきかと考えられれば良いが、その様な人は何かが有っても他人事としてしかとらえられない。しかし本当に神の御心を行おうとするならば、聖書や説教で語られることによく耳を傾け、神と自らの関係をより深いものにしようと働きかけていくことが大切なのである。


Q:聖書研究会の基礎科で詩篇119篇が8節ずつくぎられていてそこに意味があると聞いたのですがなぜこのようなものになっているのですか。

A:人間は文化的なものの中で表されているものに興味をもつ。神は人間がそのようにして関心を持つことを許された。当時はこれらの教えが口伝で代々受け継がれていた。だからこそ覚えやすい様に、心にとめて残していける様に神がおつくりになったと考えられる。神は文化を持つことを許された。それはその文化を通して人が神を知るためでもあった。例えば絵なら学問のない人でも一目見てその状況が分かる。賛美や時には劇などの形も聞く人、見る人に分かりやすい形で神を伝える手段として用いられている。神はそのことが有って人間が文化を持つことを許されたのである。


Q:サムエルという神の意志を伝える人が居てそこに従っていくことを求められていたにもかかわらずサウルは従わなかったと聞きましたが、私たちはどのようにして注意していくべきなのでしょうか。

A:サウロはすでにこの時点で回りの国との戦いに常勝を収めている。だからこそ、侮りが生まれてきている。彼は能力が高く王としての資質を持っていた。だからこそその反面、神の御心に従うことがもう一度求められたときにそれを行うことが出来るかというのである。彼は神によって試されたのである。しかし、彼はそれを行うことが出来ず、失格となってしまったのである。私たちは普段から緊張感を持って働きをすることや、神の恩寵から神のご意思をたどっていくことが大切なのである。礼拝でも語っているが、神の恩寵が必ずしも自分にとって良いと感じることだけではない。時にはなぜこのようなことが起こったのかという事もある。しかし、それもその意味を探り続けていくことで、その意味を本当に理解していくことが出来るのである。その時に私たちは神のお考えの一端を知ることが出来、そこに祝福が有るという事を知るのである。


Q:礼拝で神はラバンの仕打ちをもお許しになったと語られたのですが、それはどういう事ですか。

A:ヤコブが7年仕えたにもかかわらず、ラバンはラケルではなく、レアを与えた(創世記29章から)。このことは神がお許しにならなければ起きない。しかし、このことも神はお許しになっている。そこには神にしかわからない御計画が有るという事を語った。だからこそ、大切なのはその様な状況の中で神の意志、恩寵を理解できるかという事なのである。このことが理解できること、受け入れられることが信仰なのである。神は今回開いたサムエル記でも従うことは犠牲に勝ると語っておられる。それこそが神のご意思なのである。神は何よりも、私たちが自分の思いやしたいことを優先していくのではなく、本当に神の御意思が何なのかを探り求めることを願っているのである。これこそが信仰なのだ。これが理解できない人たちには信仰者はなぜそんなことを守っているのと言われるかもしれない。しかしそれを神の御意思であるとして守ることが大切なのである。もちろん勝手に神の御意思を作ってしまう危険性もはらんでいる。
キリストと共に十字架に架けられた者の一人が「神なら私たちを救え」と不遜に身勝手を言っている。信じるからと言っておきながら結局は自分の願いをしてもらうことを求めているのは御利益宗教なのである。これは本物の信仰ではない。自分の思い願いは置いて、神から与えられるもの、その恩寵こそが自分にとっての最善であることを信じて、その神のご意思を探り生きることが大切なのである。
ヤコブはラバンにこれだけのことをされようとも、神を信じるゆえにそのままラバンに正しく仕え続けたのである。その結果、彼は様々なものを手にしたのである。私達にとっての最高の人生は神の御扱いの中に生きることで得られる信仰の成長である。


Q:創世27・28章の所でエサウがヤコブを殺さなかった理由は何ですか。

A:彼らの年齢から割り出すとこの時まだイサクは病んでも父権を持ってしっかり生きている。エサウはイサクの死を待って復讐することを決意していることが聖書に書かれている。または意外とエサウはそれに頓着していなかったのかもしれない。またはエサウは結局、怒っていても何か別な関心が有るとコロッと忘れてしまう人だったのかもしれない。しかしヤコブがパダン・アラムへと行くことは必要なことだった。彼はその過程でべテルで神と出会い、彼自身が神の存在を心から信じ、信仰するきっかけとなっていった。彼は確かにこのエサウとの問題がなければ家から出ずに、平穏な淡々とした暮らしをしていたのかもしれない。そして、本当に神を信じ、歩むという事を学びきれないような毎日を送っていたであろう。結局アブラハムやイサクから習っただけの借り物の信仰で終わっていたのだろう。しかし、神はエサウとの争いを通し、彼を家というすべてが整った環境から一人で生きるという環境へと導かれた。そして彼は神との真の出会いを果たしたのである。
神が環境を整えられるということがある。私達にもこういうことが起こりうる。なぜこんなことが起きたのかという機会を用いてお扱いになるのである。私たちが更に神を知り、神と出会い、信仰を深めていくように導かれている神の恩寵なのである。


Q:サムエル記第一15章27節の後に上着の裾が裂かれたという事からその次の「イスラエル王国を引き裂いて」・・引き裂いたということはこの出来事から象徴されているという事ですか。それともサムエルが怒ったからこのことに合わせてこのように語ったのですか。

A:サウルにとってサムエルの上着の裾が裂けたことはアクシデントだっただろう。しかし彼のこのことがこれからのイスラエルを象徴するような出来事になったのである。ここに聖書の面白さがある。サムエルにとって上着を引き裂かれることにどう感じたかは分からない。しかし預言者はこういう出来事も受けるべきものとして導かれている部分が聖書に多くある。列王記第一11章29節からの所には預言者アヒヤが新しい外套を12切れに引き裂いている場面がある。新しい外套を彼は預言のしるしのために引き裂かなければならなかった。わざわざ新しいと書かれているあたり聖書はこのことを語ろうとしているように私は感じる。このように預言者は神のご意思を表すために普通なら惜しまれるもの、いやだと思えるようなことを要求されているのである。その一方でこの様な役割を負うものは人の上に立ち、役割を割り振る役目が与えられている。もちろんだからと言って長が一番に簡単な仕事を取っていてはいけないのである。上に立つものだからこそ一番したくないことを選択していく必要がある。弱いものに一番いやな仕事、大変なものをあてがい、自分が楽をすることは不真実である。弱いものが成長するために段階を踏んで必要な仕事をあてがっていくことが責任者の勤めである。弱い者のために自分がまずそのことを担って、そこから愛を持って教えていくことが大切なのである。


Q:救いを受けて悔い改めた後になっても自分の悪い、罪の部分が出てしまったのですがどうしたらいいのでしょうか。


A:その弱さとは生涯付き合っていかなければならない。克服できる問題は克服できる。しかし、出来ないものや、いつまでも引きずってしまうものもある。是正していながらもいろいろな形で出てしまうことがある。それをそのままで良いとは決して言わない。しかし、だからこそ環境を整え、遜っていくことなどを通して恐れて、遠ざけていかなければならない。これは誰もが持つ人間の弱さなのである。しかし弱さにこそ神の力が働かれる。ただ神にすがり、そのことを注意していくことが大切なのである。それによって時には自らの弱さによって起こしてしまいそうだった罪を神の御力で免れる。その時にもう一度私たちは神の力を見ることが出来る。だからこそ神を信じ、神と対話をしていくこと、そして恐れつつ、神に弱さから守っていただけるよう願い続けていくことが必要なのである。それを日々守っていくためにも教会に居続けることが大切なのだ。そのなかにいることで神の恵みを十分に受けて、日々を戦い抜いていくことができるのである。


Q:以前先生が世の中で成功している人は知らず知らずのうちに神の法則を知って、実行しているからだという話をされていたことが有ったのですがその法則を知りたいのですが。

A:成功するなら知りたいと思うことはもちろんあるが、私はあまり富むことや人の賞賛が善い事とは考えないし本当の成功とは思わない。むしろ成功しない法則を気にしておくと良いのではないだろうか。問題を人のせいにする人は確実に失敗する。信仰者はもちろんそうであってはならない。神への信仰の下、真実に周りの人のために仕えて働き掛けていくことで私たちは神の治めておられる世にあって幸福へと導かれていくのではないだろうか。

(仙台聖泉キリスト教会会員)