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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告—88
山本 更
サムエル記Ⅰ 13章
サウルの問題が取り上げられておりペリシテ人にどのように対峙していくかということが書かれている。
一連の流れからどのように捉えていくかという時、見るべきは組織という集いである。今は個人が大切にされている時代であるが、その中であってもキリストの体なる教会としての一致が必要になってくる。
自由の時代だと言って個人で宗教をどうにかしようと思っても、結局行き詰ってしまうことが多い。
サムエル記を学ぶ上で個人ではなくイスラエルの民としての組織を見ていくことが求められている。今回取り上げられているところもサウルがペリシテとの厳しい戦いを前に自分自身と民をそこに置かなければならないという状況にある。なおさら神が共にいてくださるという保証が必要にであった。そんな時サムエルが祈りに行くと言っておきながら来なかったことによりサウルは私が犠牲を捧げますと言って事を行ってしまった。サウルがそれを捧げ終わったその瞬間にサムエルが到着した。そのような時の運びを見ると神がおられることを強く感じる。
ここで問われていることはいかに神に信頼するかということである。
人は自分の許容範囲以内のことは恐れというものがなく普通に受入れて進んでいくことが出来る。しかし許容範囲以上のことが求められるとき恐怖がある中での信頼というものが問われてくる。
ここでのサウルは自分の許容範囲を越えた事柄の中で神への信頼が問われている。確かに様々な理由により言い訳は通るけれども、だからこそ神に信頼する姿勢をとっていかなければならない。しかし彼の恐れは神への信頼を失わせてしまった。あたかも犠牲を捧げて信頼しているように見えるがその実は神への信頼による行動ではないことを露呈している。
この書は人の残念な現実というものがしばらく続いていきますけれども学ばなければならないことであります。私たちは神に信頼し御心に沿うものでありたいと願います。
Q:サウルが促しに気づかなかった理由は何ですか。
A:そういう問題は育まれていかなければならなかったにもかかわらず前章で民が叱責を受けているとき、自分のことではないと思っていたからである。
人に起こった問題を、自分にも起こり得ると考え備える営みをしていなかった。心は耕されていかなければならない。自分の心の営みに注意を払って生きていくと人の心も注意深く見ることが出来るようになる。ひいては人を尊ぶことが出来る。
そのことは人と人との交わりの中でとても大切になってくる。育まないで放置しておくことは損失にあたる。そうなってはいけない。損なわれては大変である。何をおいても愛する人格の魂を守っていかなければならないと考え取り組んでいかなければならない。
Q:促しに対して事を行っていくときどのようにしていけばいいですか。
A:自分一人でするのではなく信頼する隣人と事を行っていく。一人だとどうしても主観的なものとなっていってしまう。とくに伴侶者がいるなら二人で事を行っていく。夫婦はどちらか一方が成長するという事はないので、一緒に行い成長していくことが大切である。
Q:伴侶がいなくなった時、個人としての信仰を歩んでいこうと思ったらどうしていかなければいけないですか。
A:自分の一番の問題点、変えられない、動かないことをどうしていくか。必要としている部分にきちっとした解決と変革を心がけていくことが大切である。一人になることをおそれるのは依存していると思われるかもしれませんが、相互依存というものはとても人間的な姿であるし、そうあっていいと思います。
Q:礼拝で的外れが罪ですと言われていたのですがどのようなことに注意していけばいいですか。
A:今日の一連の話から人が叱責され、怒られているときにいかに自分自身も同じ問題を認めそこに自分を置くことが出来るかということが重要になってくる。愛する子どもに認罪を育んでいかなければいけない時、親が鈍感であると子も鈍感になってしまう。子どもをよく見て敏感にその心をとらえていき、罪とは何か、自分の何が罪となっているかをきちんと捉え愛する人格に教えていかなければならない。
Q:普段の生活でみられる慣れというものに対してどのようにとらえていけばいいですか。
A:慣れには二つあって神との生活にも慣れというものがある。自分の考えと神の御心が完全に一致することが本当の自由と言えることとするならば豊かな関係が御心への不断の従順が確保できる。
それとは別に、悪への慣れに対しては恐れてそれらを自分から遠ざけていかなければならない。その恐ろしい慣れの中で、しかし、諦めないでじたばた抗い続けることで救いの手が伸ばされることがあります。