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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告—87

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山本 更


サムエル記Ⅰ 12章

 アモン人との戦いに勝利したのちサムエルを通して、なぜ王が与えられたのか民に知らされた。
民が良い結果を見て自分たちのしたことは間違っていなかったのだと思わないように神が働かれている。
実際に御心に従って王を求めたのではなく人の勝手な思いと主観によって事を進めている民の姿が見られる。
人は事がうまくいったのならいいではないかと思ってしまう。
そんな中で、例え事がうまくいったとしてもそれが正しい動機の中、目的を持って進められているのかということを追求する人もいる。
けれども大半の人は私が願ったから神はそうさせてくださった。
自分は正しいという思い違いをしている。
本当に正しいこととそうでないことがうやむやになっている。
王についても神という方を恐れ信じ謙って求めたのではなく、自分達の思いにより他の国が持っているので自分達も持ちたいという考えで決めている。
そしてそれを主張し、そのために理由を見つける。
人は少し物が分かってくると、そういう事を繰りかえしいつの間にか極めて自己中心的で、自分というものを主体として生きるようになる。
人の姿とはこういうものである。
それ以上のものではないということを、自然に出てくる考えや行いを通して神は私たちに知らしめようとされる。
そのような無知な中にあって一歩も動けなくなってしまうのではなく、神はご自身を現してくださり私達を信じ従い恐れて生きる道を示される。
神は愛する者たちが無知で我儘の中を生きることを良しとはされない。
事柄一つ一つの知らなければならないことを知り、意味を持たせなければならないところには意味を持たせることこそが信仰者の生涯であると教えている。
ここ12章ではいったん保留になっていた事柄も、サムエルは事がうまくいったからといってそれでよいとはせず、皆の前に立ちきちんと自分の姿と神の姿とを現した。
神を信じていると言ってもお題目でその中身が伴ってこない空しいわき道にそれるのではなく神の道、神の御傍を歩んでいくことで、満たされたものとなっていく。
罪のないサムエルが民に事の清算をきちんと求めたように私達も自分たちの罪を悔い改めてその生涯を進めていきたいと願います。


Q:創世記27章のとらえ方としてどのような視点で考えていけばいいですか。

A:個人的な解釈としたらイサクの信仰継承をどの様に捉えていくかというところで、彼個人ではなくそこに継承という問題がクローズアップされていくとちょっと見え方が変わって来ます。祝福の問題をイサクの食欲が問題だというようなそんな簡単なもので良い悪いと言うのではない。
その時のイサクを見るに突然、体の衰えを感じ同時に死を見たのでしょう。またそれはイサクだけではなく妻であるリベカも同じように死を感じている。しかし実際はどうだったかというとイサクはリベカよりもまたアブラハム、ヤコブよりも長い年月生きている。
しかし家の中ではもうその時が近づいているかのようにことが進められている。同時にその前ではエサウの妻のことでイサクとリベカが困っていることが書かれている。
祝福それ自体も祈ったからと言ってその人のものになる、その人のものにならないというようなものではなく、その家に導かれる神の使命を受け継ぐということである。
神と共に歩む、神と共に生きるということを相続するのである。しかしエサウという人物がそこからあまりにもかけ離れているゆえに、イサクは期待をしつつエサウに対峙していることが見られる。
しかし、その着手が遅かったゆえにエサウから段々と遠ざかってしまっている。エサウに祝福を祈ったからと言って事がうまくいくわけではない。あたかも神の祝福は降ってくるようなものだと思っている姿がある。祝福とは神と共に生きその扱いの中に生きるということである。
どうにかしたいと思うなら、時が来てさあ今からというのではなく、その時を見据えながら早いうちから準備をしておかなければならない。それは時が過ぎてしまい、もう間に合わないとならないためである。


Q:イサクとリベカのような家族の問題を起こさないために大切なのはコミュニケーションですか。

A:コミュニケーションも大切だけれど、それだけではなく普遍的真理と恒久的真実が家族の中で共通の認識として確立することが大切である。集いの中で信じているものや大切なものがその時の状況によってころころ変わるのではなく、きちんと持ち続けていくことが出来るかが大切になってくる。
言葉で伝えるだけではなく、集いのために一人が夢中になって取り組んで生きているということを周りのものが見るときにそれが真実であるということを知る。語るよりもその真実な姿を見て共感し集いの真理は構築する。共に生きている者たちは真理の中を歩んでいくことを選ぶようになる。
それは家族や教会等の組織を建設していくものになり、確かな組織の中で育まれていった人格はまたその組織を真心から担っていくものになる。


Q:主観からの解放とはどういうことですか。

A:何が主観で何がそうでないのかは隣人を通して見えてくる。本当に相手のことを思ってしていることか、そうでないのか。何がすべきことで、そうでないことなのかというものを注意深く探りつつ進めていかなければならない。
最善を探り見極めつつ行っていくとき、自分勝手な主観からの解放が与えられる。例えば注意深くメッセージを聞いたり、御言葉を常に心にとめて置くことで、自分がどのような心の営みをしているのかを再チェックしていく。そこで豊かな聖霊の働きかけを得ることが出来る。そうでなければ一番近くにいるものが泣いていたり、疲弊していたりしても気づかず平気でいるということが起こる。
これが人間の怖い姿である。一番大切にしなければならにものを一番傷つけてしまう。


Q:リベカの主観が独り歩きしているというのはこの結果が最善ではなかったのですか。

A:なぜ神がヤコブを選び兄が弟に仕えるとしたのに、イサクがエサウを祝福したのか。 それを何が何でも、奪い取って愛するヤコブに、たとえ騙してでもヤコブへと思って行動してしまった。そのための呪いを受けますと告白したためリベカはもう二度とヤコブやその家族とも会うことが出来なかった。最善とは言えない姿がその家族の中で見ることが出来る。
本当はそこまでにイサクとリベカの間のすり合わせが必要になっていた。確かに神の託宣があったとしても、また違う形で表れていたのではないか。理想の家族の姿を追い求めていくために夫婦は常に成長し続けていかなければならない。夫婦どちらかの成長が止まればもう一方の成長も止まってしまう。
家族も崩壊しそうになる時、それを食い止めるものは神が突然何かをいきなり降らせてくれるものではなく、信じて共に歩み続けているかどうかである。いざという時にそれぞれが大切なものを見出し、どうにもならない状況を食い止め改善し、それを信じ歩んでいくことこそが豊かな家庭を作る。身勝手な思いや行動、無責任な態度を改め夫婦が神を恐れて共に家庭を建設する。この事が子ども達を悪しきから守り豊かに導いていくものになるのである。


(仙台聖泉キリスト教会会員)