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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告—84

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 9章

 先月はイスラエルの民が極めて正しくない方法で王を求めた箇所を取り上げ、本来はどのようにして求めるべきであったのかを語った。
私たちは人生において必要なものを日々取り入れている。神に求め、願ったことで与えられるものもあるだろう。
しかし間違った方法を用いて手に入れたものは、その分の刈り取りをどこかでしなければならなくなる。
私たちは真実な姿でそれらを吟味し、手に入れていく必要がある。
神は民がだまし討ちのような求め方をしたことに対して復讐するのではなく、サムエルを通して、王にふさわしい人物を立て上げた。
サウルはベニヤミン族の生まれであり、謙遜に語っているが、その家系をたどれば、良家の青年だったことが分かる。
また父親の雌ロバを忠実に探す姿が書かれている。彼は素直で真実な青年であった。
その後ロバが見つからず帰ろうとしたサウルに予見者のところに行きましょうと僕が提案している。
僕に関しては最近説教の中で多く取り上げているが、しもべを見るとその主人や組織の質が分かる。
若いしもべでありながらこのような情報を手に入れていたこと、また取引に助力を得るために持っていた銀を差し出していたところから、先を見定めることや日頃から必要に備え、準備を怠らずに行っていたのだと感じられる。
きっとこの銀も何かあった時に備え、隠し持っていたのだと考える。

 人間は安定した環境や、すべて自分の手の中に収まっている、予測のつく環境を好む。
しかし、信仰を持つことが出来ると、神がことを行われると信じているからこそ、黙ってその環境で待つことができるようになってくるのである。
そのようにしているうちに神の御業が働かれ、環境に変化が与えられる。
それが恵み、祝福につながるのである。
民がだまし討ちで得ようとした王を神は手順を踏みつつ導かれた。
この後サウルは神のみ旨から外れてしまったことはあったが、彼がもし神のみ旨に従っていれば、神の使命を果たすだけの資質を持っていたのである。
神の前に従順に生きる時、賜物を豊かに用いて私たちに恵みを与えてくださるのである。


Q: 先日の礼拝でアブラハムのしもべについて「神はしもべの従順さを見ておられる」と語られました。
私も使命を忠実に全うしていく者でありたいと願いますが、どうしても自分のやりたいことを優先してしまう時があります。
どのようにすればよいでしょうか。

A: どんな時でも謙遜でいられるかということが問われている。
時代は民主主義であり、皆に等しく権利があると言われている。
しかし私たちは信仰者として神が全ての主権を治めておられることを信じ、神に謙っていかなければならない。
そして同時に神だけでなく、身近な人にも謙っていかなければならない。だが出来ない現実の方が多いのである。
謙るとはただ姿勢を低くしていることではない。
その相手の役に立てる様に、頼まれたことやそれ以外でも仕えていく姿勢のことを言っているのである。 謙って仕えていると言いながら、ことに間に合わなかったとき最後に開き直ってしまうようでは謙りではないのである。
本来の謙りとは何事にでも間に合うように準備していくという姿勢なのである。
「しもべが銀を持っていたのはこのしもべが特別だったからでしょう」と考えるのではなく、そのとき急に求められても出せるように日ごろから用意を怠らないようにしていたこの謙っている姿に注目し、学ぶべきなのである。
私たちも同じようにするとき、出来なかったことが出来るようになったり、わからなかった事を知るようになるのである。また実行できなかったならば自分自身の問題を悔い改め、是正しなければならない。
恥や失敗で痛手をこうむっても、そこから這い上がる営みをしていくことで自身の成長に繋がる。
そして身についた様々な生きる術は世の中で生きる上でも役に立ってくるのである。これが神の法則なのである。
「持っているものはさらに与えられ、持たない者は持っているものまでも取り上げられる」という言葉通りなのである。
人は「おかしいじゃないか、神は貧しいものに与えてくださるのではないか」と言う。
しかし実際は与えられるだろうと怠惰の中にいれば、本来手に入れられるものまでも逃していってしまうのである。
「与えられたら献金します」と言う人は結局捧げられず、神からの祝福も与えられずに終わってしまうのである。
ぜひ、引き続き取り組んでいっていただきたい。


Q: 礼拝のメッセージの中で標榜することを語っていましたが、教会学校の中でもそのことについて考える時を持ちました。
そして、先日のある兄弟のお証しがまさに標榜なのではないかと感じました。そのような受け取りでいいのでしょうか。

A: 信仰の練達ということを改めて考えてみると、熟練するのには様々なプロセスが必要になることが分かる。
だからこそ、価値観という言葉を私は多く使うが、愛という広く包含する言葉とは違い、さらに細かい大切な部分を表す意図で使っているところがある。
そして私たちが共通して価値を見出すべきものは何かということも時間をかけて話してきた。
何が大切で、何を尊び、どのような順番で持っていくか。
それは私たちに「信仰って何だ」と、実際の問題で考えた時に「こういうものだ」と答えられるようにさせるのである。

私たちは信仰の価値観を知ることから始まり、その中に生きる意味をしり、実践して結果を実らせることができて、そこに生き続けることが出来るのである。
しかし、もしそこで実践がうまくいかないと、自らの信仰の価値観がずれているのではないかと思い違いをしてしまい、価値観すら持つことが出来なくなってくる。 だからこそ信仰を練達していくにはきちんとした行いが伴わなければならず、やるべき行いをやらないことは価値観が伴わなくなる原因となってくる。
行いをきちんと為せる人は、なお信仰と実践を通して神の深い真理に至ることができる。
実践しない人は分かっていなくてはならない信仰すら分からなくなってくるのである。
標榜するというのは実際私たちの生活の中で、大切だと思うものを表すということであり、標榜することでたとえ行いに対する大きな壁が生じたとしてもそれを乗り越える気概が与えられるようになる。
私は相手がどうあっても信じて労力を投じていこうと標榜することで「嫌だと思うこと」が「為さなければならないこと」のように思えてくる。
考え方が変えられ、問題に向き合っていくことが出来るのである。
しかし、標榜だけで終わってしまうことは恐れなければならない。
ひたすら不真実だけが残り、標榜こそが信仰者であると勘違いしてしまうことがない様に取り組んでいかなければならない。


Q: 出エジプト2章11節「モーセが同胞のところに出ていき」とあるが、ここではもう自らがイスラエル人であることを自覚していたのでしょうか。

A: モーセを拾ったパロの娘もヘブル人であることを知ながら拾っていたため、そのようなことは意識して育てられていたと考えられる。 また親たちは、神がこの小さなたましいに何か為そうとしているのだと意思をくみ取り、宗教教育を多く取り入れ、育てていただろうと考えられる。
と言うのも、彼らにとっては一度捨てられたたましいだったからである。
本来なら捨てられるべきものであったにもかかわらず、それが自分たちに返されたことから感謝と共に神を常に意識していたのではないかと感じる。
私たちもクリスチャン2世3世と形作られている中で、次世代の子どもにどう関わり、どのように信仰に携わらせていくかを考えなければならならない。
生まれた時から子どもにどう関わるかで子どもの生き方が決まってくることはこの聖書の個所が証明しているのであるから。
この後モーセはパロの息子として学校にも行き、エジプトの科学を学ぶように神が導かれた。

 私たちは神が全てを備えてくださることを信じているが、そのことに寄り掛かるのではなく、私たち自身も神の働きの一角を担っている事実をとらえなければならない。
イエス・キリストは癒した人々に「信仰によってあなたはいやされた」と語っている。
これは違う方面からとらえれば、ただ何の条件もなく癒してもらっていたのではないという事である。
彼らには信仰がなければならなかったのである。
もしかしたら、癒されるために何らかの努力が必要だったのかもしれない。
このことこそ私たちがしなければならない努力の部分なのである。


Q: 小さい時からの宗教教育が大切である、とうかがいながら、私も取り組み続けているが、最近子ども達も手ごわくなってきています。 その指針をどのように持っていけばいいと悩むのですが、どのようにしていけばいいでしょうか。

A: その時その時で知恵を与えられながら教育を為すべきことなので、断定的な答えを言うことはできない。
しかし、私たちがどれだけ聖霊の働きを感じることができるかが重要になってくる。
これはしてはいけない、これはするべきだという敏感に反応する心を持ち、それを発動(実践)していくことができるかである。
私自身は発動した方が良いという教えの中で育ってきた。
何もしないよりは行動し、それで失敗したとしてもフォローしたり、悔い改めたりすることができる。
だからこそいかにそのような感覚の中で日々を過ごしていくことができるかだと私は感じる。先日、ご主人が集会の中で証していた時、あなたは最後の「父は光明先生から、私は嘉納先生から教わり、神の道に歩み続けていくことが出来た。
私の息子も現在、学びのために東京聖書学院に行っている守兄が先生になり、そのもとで歩み続けて欲しい」という言葉で泣いていたでしょう。
私はあなたが泣いていることを知らなかった。
しかしそれに気づいたのは、あなたの2番目の子(3歳)が静かに泣いていたのを見たからである。
子どもはあなたの顔を見たから泣いたのではなかった。
あなたの出した空気を感じ取ったのである。
あなたたちがまず本気で神を意識することが必要であり、そこから色々なことを考えていった方が良い。
子ども達はそのあなたたちの姿、醸し出す空気から神を知るようになる。神がこの子を愛していることを心から信じる感覚を大切に持ち、子どもにもそのように捉えさせていくことで、信仰に入っていくことが出来るのである。


Q: 聖書の中でレビ人が祭司の働きを持っていますが、レビ人と祭司とが分かれていることや、アロンの家系のものという表記が有るのですが、どういうことですか。

A: レビ人と祭司職は別物。レビ人は民の中に入って、神に仕えることが仕事である。
だからこそレビ人の役割は大切であり、その仕事が全うできるように民はその報酬を払うことを大切にしていかなければならない。
しかし敵に攻め込まれて、略奪されたとき宗教をないがしろにする人は一番にレビ人への報酬を抜いてしまう。
そうするとレビ人は生きていけないためにその地を離れてしまう。
つまり信仰が必要な時に肝心の神のことを取り仕切る人がいなくなってしまうという悪循環に陥ってしまうのである。
集いの秩序が宗教によって守られていくべきであるのに、その秩序が一番にいなくなってしまっては集いを形成することが出来なくなってしまう。
組織や、集いを良くしていこうと考える時、一番に私たちにとって鍵となる人物、イスラエルの場合はレビ人を獲得していく必要がある。 そのためには私たちはそこに惜しみなく必要な分の支払いを行っていかなければならない。
しかしここでそのわずかな支払いを惜しむとその先の大きな祝福も逃してしまうことになるのである。


Q: 先ほど親がどのようにあるべきかという話を聞いていて、私は今の年になって自らの経験を子ども達に伝え、教えるべきか、それとも自分で経験するまで待つ方がいいのか悩むのですが。

A: 現状、分からなくてもいいから、覚えておきなさいということは必要であると私は感じる。
正論は響かない、だからこそ自らが何を行って何を失敗したか、そこで何を悔い改めたかと伝えておくと良い。
同じ大きな間違いを行わせないようにということでもあるし、同じ間違いを起こしてしまった時に「ああ言われていたのにな」と子どもにも考えさせることになるのである。
「言うべきかな、言わない方がいいんじゃないのかな」と考えるのは、一面その伝え方に悩んだり、返ってくる反応を畏れたり、その時間を億劫に思っている言い訳になっているのではないかと思う。
どのように言ったらこの子が分かるかなと考え、言い続けるのがいいと考える。
子どもがだいぶ育ってくると直接手をかけることが少なくなってくる。
ここで他の事に力を入れる人が出てくるが、それはいけない。
この時間を更なる子どものために費やした方が良い。
親と子が違うことで悩んでいることは珍しい。
子どもが悩んでいることは親も悩んだ経験があることや現在も悩んでいることが多い。
子どもと一緒に悩むことや、すでに答えが出ているのであれば、子どもに教える、伝えるくらいがいいと思う。
過保護と言われるくらい情報収集して子どもと関わった方がいいと私は思う。
その感覚は世の中からしたらおかしいと思うかもしれない。
しかしそれが私たちの信仰によってできる部分なのではないかと考える。
私たちの教会には母子室がない。これは世の中から見ればおかしいと思われることである。
しかし私たちは子どもとその親が教会で神の下で生きるうえでの方法を早くから学び、子どもが教会で礼拝に参加することが普通にできるようになるために、その空気の中においているのである。
子どもが信仰を選ぶ時を待つという人がいるが、私はここまで恐ろしいことはないと思っている。
子どもが自分の好き勝手で選ばないとなぜいえるかと考えるからである。
私は子どもの自主性を大切にするあまり、信仰に導くことが出来ないという結果に至るのは神の御旨でないと思うのである。
だからこそ、取りこぼさないように必要以上に関わっていくことが大切なのではないかと考えるのである。


Q: この間の礼拝のメッセージで、しもべがリベカを探ったのは、彼女の信仰の片鱗を探ったということでしたが、何を見極めようとしたのでしょうか。

A: しもべがすぐに帰ろうと言ったことで必然的にリベカは一晩で答えを出し一緒に行くかを問われたのである。
それに従った彼女は、神に自分の未来を決定する権限があることを認めて信仰の標榜をした。しもべは神が召した働きに忠実に歩み、その権限を認め共に行くことをリベカに願った。
彼女も神の御旨の大切さをしもべから深く感じ取っていた。
「やるぞ」といくら標榜しても「いやです」と相手に言われてしまえば、ことは成り立たないのである。

盡子師は癌を患って入院していた(その時はまだ診断はくだっていないが)母親の下へ12月31日、実家の花屋の仕事がきちんと終わったことを報告しにいった。
すると母親は急にその時彼女にそこに座りなさいと正座させて「あなたは光明先生がこの人ですと言った人と結婚できますか。
そこで光明先生に『はい』と答えられますか」と迫った。
何でこの疲れ切った時に唐突に答えを迫られるのかと彼女は思ったという。
しかし彼女はそこで後にしてくださいと言うのではなく心から約束し「分かりました」と語った。
その半年後、彼女の母親は天に召された。まだ、死期を告げられていない時であったが盡子師はそこで決定を迫られた。
何の前触れもなく。
しかし、彼女は母親のその信仰を見てきたものとして、何が有っても牧師に従い続けた母親の信仰の姿勢に倣い自らもそこで生きていくのだと「分かりました」と語った。
まさしくしもべに従ったリベカと同じであると私は感じるのである。
彼女は母親の信仰に倣い、母親と神の前に標榜してこの決断をした。
私たちもいつ決断を迫られるか、もしくは迫るものとなるかもしれない。
その時に神に従うことが、従わせることが出来る信仰を確保し続けていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会会員)