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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-89
・・・8月聖書を学ぶ会in七ヶ浜サマーキャンプ・・・ —

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 14章

 今日の聖書箇所から考えていきたいのは信仰者が行った信仰の表明が、真の信仰による表明なのか、それともただの勘違い、的外れな行為であるのかということに気を付けなければならないということである。
信仰者が信仰によって事を為すことが出来るようになるためにはどのようにしていけばよいのか。信仰歴が長くなればそのようなことが出来るというものでもない。だからこそ新約に生きる私たちは、旧約の世界を見て、学び、信仰生活というものを考えていかなければならない。筆者が何を記そうとしているのか、伝えようとしているのかと追及していくことが必要なのである。
 話を戻し、サウロは初め神の前に生きていたのに、なぜ変わってしまったのかということについて考えたい。私はサウロの問題点は、「神から民へと語られる信仰的問題、課題を自分に当てはまらないとしてそこから身を避けてしまった」ということにあると考える。それによって彼は実際に自分がそのような問題へと直面した時に、過ちを犯してしまったのである。
 それに対してヨナタンはまだまだ若いが、神の御旨を求めつつ、その方法を習得していこうとしている。その対照的な姿がこの14章に表されているのである。
 ヨナタンは主を信じて道具持ちの若者また、600人の民と共に戦いに出ていった。同時に彼はきちんと神に伺いを立て、自らがどの様にすることが神の目にふさわしいのかを確かめている姿がある(9節、10節)。これこそが真の信仰の表明の姿である。対してサウロは、的外れな誓いを立てることで民を苦しめている姿がある(24節)。また誓いの(24節)故に本来ならばヨナタンは殺されなければならないにもかかわらず、民の声によって撤廃していることから自らが立てた誓い一つですらも徹底していない姿が見られる。この違いが信仰によって事を行うか、的外れな名ばかりの信仰であるのかということなのである。
 サウルは本来ならば神に選ばれたものとして生きていくことができた人物であった。しかし、神へとその信仰を立てることが出来なかったゆえに、彼はこの14章で終わってしまったのである。


Q:14章のところでサウロが的外れなことをしていると語られていましたが、自分が信仰によって神の意志を行っているか、それとも的外れなことをしているかどのようにして注意していけばよいのでしょうか。

A:他者によって指摘してもらう必要がある。しかしサウロは注意勧告を誰かにしてもらうことが出来なかった。というのは彼に唯一勧告をできるサムエルとの関係が崩れていたからである。彼は前章でサムエルによって生贄を捧げることを待てずに祭司が捧げるべき生贄を勝手に捧げてしまったという罪を犯し、この時点でその悔い改めがまだ行われていない。サムエルが遅れてしまったということがあろうとも、自分がしてはいけなかったと罪を悔い改めサムエルとの関係を修復していれば、彼に注意勧告を与える人物が現れたはずなのである。しかし関係は修復されていなかった。その故に14章の的外れな行為につながったのである。だからこそ私たちは注意勧告をしてくれる人物を備える必要がある。そして同時にその人物に注意してもらうための関係を作る必要がある。そのためには私たち自身が謙遜であり、相手からの注意を受け入れるものでなければいけない。注意勧告してほしいと告げながら、その人のいう事を聞き入れなかったり、相手を蔑ろにしたりしているようであってはならないのである


Q:説教の中で語られた「御言葉を悟って行動する」という事についてなのですが、行動するという事の具体的な内容を教えてください。

A:私たちの日々の信仰生活が悟りによって飛躍することが出来る。私たちは生活が飛躍することを願っているが、神の力のみで簡単に行われるのではなく、また私たちが願うだけで終わるものではない。そこに信仰者としての努力や取り組みをすることが必要なのである。神へと愛を注いだ時に、神が私たちに何を返して下さるのか、時には図る必要がある。それによって私たちは一番したくないことに取り組んだり、苦手な人とかかわったりすることが出来る。その姿を確かに神は見ておられ、恵みを与えてくださるのである。また私たちは子どもにもそのようにしなさいと教育をすることが大切である。しかし、子ども達にそのように教えていくためには親自身がそこに真実に取り組んでいかなければならない。それが結局表だけのつくろったものであれば子どもはすぐに見破って、親の不真実な姿を指摘してくる。そうなれば子どもに求めることは出来なくなる。だからこそ、その子どもを神の道に導きたいと考えるならまず、その子の故に自分が取り組みを始める必要がある。  イエスキリストは子どもに与えるパンを犬に与えることは善くないと語っている箇所(マタイ15章26節)があるが、イエスキリストはどんなにユダヤ人という存在が自分を受け入れないとしても簡単にその力を異邦人に振りまくことはなかった。イエスキリストがまず私たちに優先順位を大切にするという神の意志を全うしているのである。私たちもその姿に習い、自らの愛する者のために自らがまずそのことに取り組んでいく必要がある。そして私たちが大切にするべき一番身近な存在のために、その優先順位を間違わず愛を注いでいくことが大切なのである。


Q:サウロは権威者でありながら、的外れなことを行ってしまった。その故にさらなる問題が引き起こされている面もみられる。どのようにして権威者はそのことに注意していくべきか。

A:神が召されたということ自体大きな責任を負うことである。王という位が与えられていればなおさらである。そんな権威者のために当時は自分の命を賭してまで、愛の故に罪を指摘する者たちもいた。私たちの教会は民主主義ではなく神が選ばれた人に従うということを大切にし、その中で神の御心がどの様に行われるかという事を見て、そのことがいかに素晴らしいかということを証している。まず信仰者としてその権威者が神によって召されたものとしてその教えに習うことが大切である。たとえそのことに不満を覚えようとまずは従うことが必要である。そして長いスパンで見る中で、4年でその人が降ろされるかもしれないし、逆にその人の指導の善かった面が見えてくることもある。どちらにせよサウロやダビデのように神の御心を行うか行わないかでその権威を持つ人も神の前で等しく扱われるのである。


Q:道具持ちがヨナタンに従い続けている姿が見られるが彼も先ほど言われたように、信仰によって事を行っていったのですか。

A:当時の彼らの関係がどの様なものであったか詳しくは分からない。ヨナタンがどの様な者を自分の道具持ちに選んだのか。もしかしたら、一番信頼のおける親友的な存在だったかもしれない。しかし、立場は王子と道具持ちだったのである。私たちはこのような無名ともいえるような人物の信仰を聖書から大切に読み取っていかなければならない。私はヨナタンとこの道具持ちの中にとても豊かな友情を見ることである。私たちもこのような信仰の友との関係を作っていかなければならない。


Q:ペテロⅠ 4章12節、燃え盛る火の試練と連想されるものに何か意味があるのですか。

A:火の性質から考えられることは、どんどんと燃え盛ることや、すべてを灰にしてしまう事などさまざまである。この箇所は神の導きの中にいてもこのようなことが起こりうるということを心していなければならない勧告しているのである。神を信じ導きの中にいればこのようなことが絶対に起こらないと思ってしまう人もいる。しかし実際は起こると聖書には書いてある。ではその事実を悲しむしかないのかと言えばそうではない。神はその先に勝利と救いを約束しておられるのである。神が創ったこの世界は正解を探せば良き道を全うできるのではない。この世界で良き道を選び取り、人生を全うするには神に従い、その教えに歩むことなのである。ヨナタンが道具持ちと共に多くのペリシテ人と戦ったように。世の目線で見れば無謀である。しかし、彼は神がそのように導かれたと歩みだし、勝利をつかみ取ったのである。私たちは愛するものにこのような神の存在とそのように生きることを教えていきたく願う。


Q:今まで教会で生きる私と、世の中に生きる私で食事の前の祈りをしなかったりと二面性がありました。しかし、環境が祈れるように変えられ、自信をもって日ごろから祈ることが出来るように変えられました。

A:人生の中で私たちは自分たちの通った道を振り返り、もう一度、神の導きを感じ、感謝することが出来る。今の自分に起こった神の祝福があるとき、今までの困難をいつまでも大変なことだった、嫌なことだったと持ち続けずに済む。なぜならその道は、その困難はこの恵みのために受けるべきものだったと考えることが出来るからである。以前の環境から整えられたより良い環境が与えられたことで、神が豊かに働かれたことを私たちは感じることが出来るのである。


Q:「きよめの経験とは信仰の飛躍が与えられる神の一方的な憐れみの経験である」と学んだのですが、きよめということに関て先生はどのようにお考えですか。

A:きよめとは実践的な信仰や信仰が飛躍する出来事、個人の霊的な営みであると理解している。しかし私たちの教会ではそのきよめという経験、その名前を持った出来事を大切にするのではなく、名前を付けなくても、きよめのように神との関わりを持ち、自らの信仰を飛躍させるような出来事を大切にしていきたいと願う。きよめの経験の有無よりもまず、神との経験を持っているか、それがきよめとかきよめじゃないとかではなく、その経験自体そのものが大切なのである。神は一人一人に様々な形で関係を持っていて下さる。私たちを救い出し、その御手の中で生かし、さらなる良き交わりを持とうと、関係を深めようとして下さる。だからこそその中に生き続けること、その上がり下がりはあるかも知れないが、その中で生きようとしていくこと自体が大切なのであり、この教会で目指していこうとしているものである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)