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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告—84

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山本 更


サムエル記Ⅰ 11章

  前回に引き続きサウルが王として立っていくところが書かれています。民はサウルを王として建てたはいいがきちんとした王政もなく神に選ばれたと言っても、そこにまとまりはなく事も進まなかった。イスラエルの民は王がいればどうにかなるだろうという考えしかできなかった。きわめて人任せなイスラエルの民の姿がここにあります。理路整然と正論を述べはするが、物事の動かない現状にあります。実際ヤベシュ・ギルアデの問題が起こったときサウルは王になったにもかかわらず相も変わらず牛を引いていることが書かれています。
 そのような隙にアモン人が攻めてくるということが起こってきます。イスラエルの側もとっとと降伏しその条件の提示を願っています。それに対するアモン人の答えは右目をえぐるという残酷で、そしりをイスラエルに与えるというものでした。完全にアモン人はイスラエルの民を馬鹿にしてかかっています。今のイスラエルは一週間の時間を与え、使いをやったとしても一向に動かないだろうと侮られているのです。
 そのような状況の中で今までと唯一違っていたことは、サウルが王として立っていたことでした。サウルのもとに使いが来てヤベシュ・ギルアデのことを伝えると牛を12に切り分けて各部族に送りました。
 それはイスラエルの過去の歴史、士師記でも書かれているようにベニヤミン族が不道徳なことをしたことに対してこの問題をどうするのかと問うたことと同じようにしてサウルはそのことを民にせまりました。
 このように王政も何もない中ではあっても確かに事は行はれていきます。神は選びの民であるイスラエルを愛しいつくしんで、それをそしるものはイスラエルではなく私自身をそしっているのだと語られているのです。
 このアモン人の傲慢と卑劣な状態をそのままにしておいてはいけないという神の怒りがサウルを燃え上がらせました。こうしてイスラエルの民はあたかも分かっているような、あたかもできる気でいるがそうではなく神が懇ろに彼らを扱っていて下さる。用いてくださるというようなことがここには書かれています。私達一人一人も年数と共にそして豊かな神との交わりの中で、神を信じ営んでいくなかで本当にしていかなければならないことをなすものでありたいと願います。


Q:礼拝で語られた信仰者の二代目三代目が受け継ぐ先代の良い面とそうでない面というのはどのようなことですか。

A:イサクはアブラハムから多くのことを受け継いでいる。受け継いだ情報とは御言葉であったり、実際の信仰の経験であったりさまざまなことがある。その情報の故に「こうなる、こうあるべきだ」ということがわかっていても実際には行っていけるとは限らない。情報が私達を豊かな信仰者とするのではなく、自分自身がそのことに携わって信仰の現場を通っていかなければならない。情報の故に私たちはあたかも分かっているという風に言う事はできるがそれは信仰に生きているとは言えない。自分のものにしていくには神とのかかわりがなければならない。自活していくことが出来るか。結実というものを残していくことが出来るか。信仰の練達が人を分けていくのである。


Q:ヤベシュ・ギルアデの人がサウルによって救いを得たということはどういうことですか。

A:最初にも語ったが、ヤベシュ・ギルアデの人はアモン人の理不尽な要求に対してどうしようもない状況であったが、イスラエルの民に知らせを送るのに猶予を求めた。アモン人の方も弱いイスラエルに対して高慢な姿勢で事を行っている。右目を奪うというアモン人の悪辣さにイスラエルの民は手も足も出ない状況であった。神はアモン人の悪辣さに対して怒られており、サウルを通してイスラエルの救出とアモン人への裁きを行われた。


Q:一節の契約とはどういう事ですか。

A:降参するので存亡だけは許してくれという姿勢。身を守るための契約を結んだとしてもどの様にその契約が履行されるかわからないような中で、どうすることもできないし、ただなされるがままになってしまう。もはやそれは契約とは言えない。私たちの生活の中でも悪や不義の中でどうしようもない状況になることがある。困難や課題の中でどうすることが必要なのか。本当は真実な神と契約を結ばなければならないのにもかかわらず悪と契約を結んでいる。それは極めて愚かであり、それは神が一番望んでおられないことである。故にこの箇所でも神がサウルを通して働かれた。サムエル記にはそのようなことが多く語られている。信仰者が信じて果敢に事を行っている姿や、その逆の敵を前にして逃げたことなど、実践的な課題が多く語られている。そういう視点でサムエルやその後に続いたものがこの書を記したと言える。


Q:士師の時代のベニヤミン族の危機問題を彷彿とさせるような、牛を切り分ける描写をあえてベニヤミン族のサウロがやっているのは、それだけ、イスラエル全体に問題の大きさを伝えるためだったのですか。

  A:この様な事が実際には大切なのである。悪いものを悪いもということは至って簡単であるが、その悪をどうしていくかが大切である。悪を取り除き善に変えていくという営みが人間の中でとても難しいことである。その営みの中にこそ神は介在しておられて、共にことを行って下さる。究極、人だけでは悪を善に変えることはできない。だから神の介在を信じ、そこで神の御心を行っていくことによってベニヤミン人のように豊かに回復していくことが許される。直接聖書には記されていないが神がイスラエルの最初の王をベニヤミン族から選出して下さったということは、士師の時代の汚名を雪ぐ彼らの信仰の営みを神が称賛し、その証印としてサウルを王として現して下さった。


Q:ルカの福音書8章に書かれている悪霊が豚にとりつくのを許したと書かれているのはどういうことですか。

  A:イエス・キリストがそのことを許したという事実が大切であり、重要なのはその後、その土地の人々がイエス・キリストに行ったことである。イエス・キリストの故に受けるべき救いや赦しを取りこぼしてしまっている。目先のことにとらわれるのではなく、その本質を見抜く必要がある。それはいつ、どの様な形で来るかわからないので取りこぼさ無いように心の目を開いていなければならない。


Q:礼拝の中で語られた「神を帯同させる」とはどういう意味ですか。

  A:一緒にいてくださること。神を遠くに置くのではなくできるだけ身近においておく必要がある。祈りの中でも「あなたはこういう方である、私はこう信じています」ということを語っていくことで神を信じていくことが出来る。神の帯同はいつも共にいて私の戦いを一緒に戦ってくださる事を意味し、主体は私たちである。その戦いの中で神を感じそれ故に勝ちを得ていく。神の帯同を豊かに感じることが出来るとまた次の戦いへと果敢に挑戦していくことが出来る。

(仙台聖泉キリスト教会会員)