同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-91

saki-san

山本 咲


サムエル記Ⅰ 16章

 この箇所でわかるようにいよいよサウルという王が退けられた。私たち人間は時に主観や価値観で順番を変えてしまうことが多々あるが、実際は神が大切にしていることを守る事、神の意思に沿わせることが大切なのである。
サウルも最初は神の意思に沿っていた。しかしだんだんとずれてしまったのである。本来ならそのずれもサウルが神を受け入れるならば、その御力によって修復されたであろう。しかしそれすらも間に合わないほどに、神との関係が崩れ、神の霊が彼から去ってしまったのである。
現在の私たちが生きる新約時代はイエス・キリストを信じる信仰によってペンテコステの日に聖霊が降られ、私たちに霊的価値観が備わるようになる。旧約の時代は油注ぎによって神の霊が降った。もちろんサウルにもそのようにして与えられたのである。しかしその時、与えられた霊は取り去られ、それだけにとどまらず、悪い霊が入るようになってしまったのである。それでも神はその霊が離れてしまったサウロにダビデを通して霊を与え、王の役目として民を守ることを許されたのである。
宗教において時に「神が全てしてくださればこんなことにはならなかったのに」と言う人がいる。しかし、それは間違った宗教観である。本来私たちの思い通りに動かれるのが神ではないのである。そして神は直接的にではなくその神を信じる者の手を通して、身近な家族から始まり、友人、知人、職場、社会、世界とその手を伸ばそうとしておられるのである。
私達は神が私たちをその責務に任命しておられることを忘れてはならない。そしてそれはいかに重くとも、私たちが神を信じ、その召しに真実に歩むならば神がそのことを守らせてくださるのである。「私は王なのに、なぜ私が全うできるように神が教えてくれないのか」と言っていてはこの役目を果たしていくことはできないのである。間違いを指摘されたのなら受け入れ、悔い改めてまた進めばよい。しかし、そこで開き直る様に自らの罪を放置して、自分勝手に進めていくならば結局私たちもその任から外されてしまい、泣き崩れ、妬みと苦しみの中に陥らなければならないのである。この箇所で始めサムエルにあきらめなさいという事を述べているが、神自身も召したサウルが道をたがえてしまったことを悲しみ、惜しんでいるのである。だからこそ私たちの信仰生活も注意してその召しに応えつつ、日々を真実に歩みだしていかなければならない。


Q:礼拝の中で取り上げられているヤコブのことと比較して考えた時、ヤコブには導き手が居なかったのにもかかわらず神の道を歩むことが出来たのに対して、なぜサウルはサムエルと言う導き手がいたのにもかかわらず、神の道に生きることが出来なかったのですか。

A:ヤコブには神の直接的な語り掛けが有った。サムエルにもそうであった。ヤコブとサウルの違いに目を向けるならば、彼らの違いは神の御意志がきちんと伝わっていたか、いないかと言う違いである。ヤコブは直接だったが、その妻、レアやラケルは直接ではなかった。ヤコブが神の言葉を彼らの妻に伝えたのだろう。もちろんヤコブやサムエルが直接聞いたものとして特別だったという事はあるが、しかし、だからと言って直接伝えられていない者が劣っているのではない。ヤコブはレアに伝えたことで、実際レアは信仰を変化させていったと私は思う。神の言葉を伝え、意見を交わし、その言葉を自らに対する神の御心だと大切にしていたならば、結果として優劣はつかないのである。直接伝えられたとしても、神の言葉だと信じなければそのことは起きない。しかし、直接だろうと、間接だろうとその言葉を神の言葉として信じ守るならば、祝福され、結果を結ぶのである。サムエルはサウルに神の言葉を伝え続けたが、結果従わなかったサウルは神によって退けられ、それによってダビデへと対象が変えられていったのである。またヤコブも最初は彼の中ではラケルにそれを伝えたかったかもしれない。しかし彼の最後の信仰告白には、マクペラの洞穴を取り上げ、信仰を受け継いだのはレアであると語っているのである。最初にヤコブが愛する者として選んだのはラケルだったかもしれないが、結果としてヤコブの信仰を共に守り、最後まで支え続けたのはレアだったのである。現在神は直接ではなく牧師を通して日ごとの礼拝で語られている。しかし同時に私たちが霊的経験をしっかりと積み生きているならば、聖霊によって語られたと感じることも少なくないだろう。その経験を持って私たちは生きていくのである。


Q:日々の生活の中で年齢と共に物忘れが多くなってきていることに不安を感じています。日常生活ならば気を付けていこうという事でいいとできるが、信仰生活にそれが影響を与えていくことを思うと本当に不安になってきます。自分で大切にしたいと思い、ノートに書く等の努力をすることは出来るのですが、それを日々の生活の中で大切に守っていくためにはどうすれば良いのでしょうか。それとも年齢なのだから仕方ないとあきらめるべきでしょうか。

A:しょうがないと思うとどんどんと衰えてしまう。だからこそ、対策を考えていかなければならない。私がその中でよいと思うのはコミュニケーションをとることである。私達は礼拝の中で様々な素材、材料を得て、それを料理し、自らの糧としている。しかしともするといつも同じ材料、同じ料理になってしまうことが有る。似たようなことがメッセージで語られることは事実である。しかし、その中から、日々違うものを得られるように努力していくことや、それを誰かと共有することで新しいものが見えてくるようにしていくことが大切なのである。誰かと共有できないならば、自らの中に別のことを考えるもう一人の自分を作って、違った方向から物事を捉えていくという方法もある。自分がこうだと考えていたことを否定したりするもう一人の自分と議論を交わし、深めていくのである。そうすると自分の考えもさらに深められる上に、自らの取り組みとして行っていくことが出来るようになるのだ。私は先日尚絅学院高等学校の礼拝でメッセージを語る機会があった。しかし私は、日曜日の礼拝が終わらないうちにそちらに意識を向けることが出来ない。それが私の日曜日に対する礼であるが、だからこそ月曜日の朝にメッセージを語ることは困難で、時にどこかにあるような、借りてきたような話で済ませてしまおうかという誘惑にかられることが有る。しかし、若い彼らは数年すれば社会に生きる大切な存在へと成長していく。その一つを担うかもしれないと考えると大変で有っても、彼らのためになるような話をしたいと思うのである。この年代になって初めてそのようなことを思うようになった。それは確かに次の世代を育てる側へと立ち始めたからなのである。私自身もそのような取り組みをしている。だからこそ、あなたにも守り続けていって欲しいと私は考える。


Q:礼拝の中で、ヤコブはヨセフに信仰を継承したかったが結果的に見るならば、レアからユダへと継承されているように感じます。今日の所でもサウルではなく、ダビデにと継承がされています。自らが本当に継承したいものに出来なかった事実から私は継承者側の不足や問題が有ったことも伝えているのかなと感じられる部分もあったのですが、どうこの部分を捉えていくべきでしょうか。

A:昔から、技術などを継ぐために多くの人が師に付き、学び、その技術を絶やさない様にしていた。しかし、10人ほどいても実際に正確にその技を受け継ぐのは1人という事も決して少なくない。誰が後を継ぐかは神が決める。もちろん自らの一番近くにいるものにそれを受け継がせたいと思うことも事実である。しかし、一番近くにいるものは一番近くでその人の信仰を見ているのである。その人が揺らげば、近くの者の信仰も揺らいでしまう可能性がある。この教会でも信仰の継承は、今までは家族の中で神が選ばれた者だけが残ってきたような状況が見えるが、これからは与えられた子供全てが残っていくようにと願い、取り組み続けている。だからこそ現在見出すことが出来ているものも少なくはない。他の教会でも様々な方法で継承と言うべきか、信仰を伝えることが行われている。私たちは継承という言葉を大切に特別に取り上げ、他から見れば一面厳しすぎるのではないかとも思われるようなことも行っている。しかしそれも神が許された方法として私たちは信じて大切にしたいと思う。
継承という問題は誰かから誰かへ自分からこの人へと言うのではなく、神の言われることを全うし、その神の生き方に生きるときに与えられるのである。もちろん自分の子どもにという事も神の意志として信仰を教えていくという事はあり得る。しかし、それが全てではないのである。


Q:牧師先生がある兄弟に「あなたは次男として神がそこに置いたのだから、きちんと長男を立て敬いなさい」と語られたことがあって、それを聞いていたのですが、実際に適材適所で自分がやった方がいい時もあると思います。それはもちろんその時々に応じて変えていく必要があると思うのですが、実際にはどのようにして判断することが正しいでしょうか。

A:私は先ほども語ったが、そのようなことを日々考えて取り組み続けていくことが大切だと考える。学ぶことをあきらめてはそこで成長がストップしてしまう。しかし、そこに挑み続けるならば、どこかで神が悟りを与えてくださるのである。悟りを受けたものは行動と言動に整合性が出てくる。しかし悟りが無いと結局は知識として終わり、言動とその人の行動がちぐはぐで、恩恵を受けることもできず、他者にその経験を語っても自分のものになっていないがために、相手に伝わらずに終わる。なぜなら人に言いながら自分が出来ていないという相手は信頼することが出来ず、その言うこともなかなか聞き入れることが出来なくなるからである。だからこそ求め続けて悟る必要がある。そして悟りを得たならば、その経験を同じ思いを持つ人へと話すときに、相手はその言葉からどのようにすればよいのかと学び、納得し、その人を尊敬することが出来るのである。そして悟りを得た人は決して狙って得た尊敬ではないため、必要以上に高ぶらず、なお謙って仕えることが出来るのである。そこにこそ愛を持った関係が成り立っていくのであるし神がその人を召して生かそうとしているのである。


Q:先日の礼拝の時にレアについて取り上げられ「彼女はヤコブの中にいる神を見続け、見出すことが出来た」と語られたのに感動しました。愛する、愛される以前に、神を大切にしたレアの姿にヤコブは最後彼女を認めたのだと感じさせられました。

A:私たちに大切なのは愛されたときに愛するのではなく、愛されなくとも愛すること、尊敬出来るような相手でなくても尊敬することなのである。それが信仰によって成り立つのである。神がこの人のことを愛する存在として私を召したのだと思うことが出来るならば、状況は大きく変化していくのである。また人間は年をとればとるほど気を付けないと周りを馬鹿にしたり、自らより見下してしまう傾向が有る。だからこそ私は信仰が必要だと感じるのである。現代の日本では離婚しているような状況、または離婚はしないものの、家庭が崩壊しているという事がすくなくない。それは相手を敬うことが出来ないという状況が原因としてある。しかし宗教はその欠けがちな、どんな時もどんな相手をも敬う事を可能にする。神に習い、相手を敬って、まず愛するという事が出来るならば、信頼が生まれ、その関係が神の導きによって大きく変わっていくのである。相手の善き働き、愛を一つ実践して欲しいと願うなら三つ相手の願うことを聞き愛し行わなければならないと私は思う。しかしそれまで動かなかった相手を動かせるなら、相手の真実を一つ勝ち取れるなら私は喜んでその労をおしまずしたいと思う。もちろん、時には知らないうちに二つ三つのことが動いていることがある。その時、私は大いに神の御業を感謝するようにしている。
ある兄弟は家に帰ってから食事の時に奥さんがする家の向かいの建物の進捗状況を静かに聞いている。疲れて帰ってきて、なぜ興味もない工事の進捗状況を聞かなければならないのかと人によっては突き放してしまうだろう。しかし、その僅かな時間その言葉を聞いてあげることがいかに奥さんの溜飲を下げているか。奥さんは一日その工事の音を聞きつつ、一歳になろうとしている娘とただ一人関わり続けているのである。だからこそその奥さんの言葉を聞くことが、娘を育てる一つの大切なことを担っているのだと私は思う。これを放棄するならば、奥さんはいつしかその愚痴を子どもにこぼすだろう「あの人は私の話を一つも聞いてくれない」それは娘の父親に対する不信につながるのである。それを考えれば、そのわずかな時間を大切にすることで娘が豊かに守られまっすぐに育つと思えばこの時間を大切にしようと思えるのである。そうして先を考えることが出来るのが実践としての信仰なのである。人間は今ある嫌なことばかり数えてしまい、人を愛せない時がある。実際ある兄弟は仕事で「なぜこんな人が自分の部下になったのだろう」と思えるような状況になり、ずいぶん悩んでいた。しかし、彼はその人を自分なりに精一杯愛そうと仕え続けた。その結果、いつの間にかその部下は彼のために会社の近所に駐車場を確保してくれるようになった。私はこれからもこの場でこのような話しをしていければよいと思う。実際に私たちが信仰によって生きる時、神の豊かな祝福がそこにあることは確かなのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)