同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 天国に貯金をする話 —


 人は天国にゆくとき、何も持っていけない。 ヨブが「私は裸で母の胎から出て来た。   また、裸で私はかしこに帰ろう。」(ヨブ記 1:21)と言った通りである。

  詩篇の記者はこう言う。
「恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。 彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、 人々があなたをほめたたえても。」(詩篇 49:16-18)

 だが、イエスご自身が「自分の宝は、天にたくわえなさい。」(マタイ6:20)
といわれたのだから、富は死んだとき持ってはいけないが、天国に先送りしておくことはできるということである。

 ところがこの世に暮らすあいだ、せっせと慈善事業に励んで、死んで天にいってみたら、天国の貯金はゼロだったなんてことがあるかも知れない。その報いは、名誉や自己満足として、地上で受けてしまって。
どうすれば本当に天に貯金ができるのか、興味がわく。

 ヒントは次のみことばか?
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。
彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

すると、その正しい人たちは、答えて言います。

『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイ 25:31-35)

「イエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ 10:37)

 皆さん、よくご存じのはず。でも、意識にない?天国の貯金に興味はない?