同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 本を読む —


 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:16-17)
これはクリスチャンであるお互いのよく知っているみことばではあるまいか。
しかし、
  「聖書を持っていれば・・」
  「聖書を飾っておけば・・」
  「聖書を眺めていれば・・」
肝心の、教えと戒めと矯正と義の訓練に与り、良い働きのために十分に整えられた者となれるわけではあるまい。
 その答えはただひとつ、
  「聖書を読んでこころにおさめ、それを実行することによって・・・」
である。

 信仰の継承が叫ばれている。
それは確かに、自分の子どもたち、教会の中で育っている子どもたちが、同じ救いの恵みに与って、クリスチャンになっていってくれることがはじめである。それなしには、すべてが虚しい。

 そしてそれに次の段階がある。
それは救われた子どもたちが豊かな霊性の持ち主になってくれることである。
豊かな霊性はどこで得られるのか。
集会出席が先頭にある。礼拝はもちろん祈祷会に出席し祈ることは必須である。
祈祷会に出席することなく豊かな霊性を保ち得るだろうか?

 豊かな霊性のもうひとつの鍵は、先に挙げた
「聖書を読んでこころにおさめ、実行する。」ことである。
パウロが書いたテモテへの手紙のこのことばがそれを示している。
 もちろん、集会に出席している人が全部、聖書を読んでいるひとが全部、豊かな霊性の持ち主であるとはいえないが、それは豊かな霊性の持ち主になるための「必要条件」と思えばよいだろう。

 ところで皆さんは、教会では聖書が読まれるのでその時は読むだろうが、それ以外に教会外でも、自分で聖書を読んでいるだろうか?
聖書を読むということは考えもしない。
あるいは聖書を読みたいとは思うのだけれど時間がないとかで読めない。
ときどき聖書を開くけれども、聖書日課として毎日読むことはしない。
等々いろいろなケースが考えられる。

 聖書を読めるか読めないかを分けるひとつのことがらとして、「本を読む」ということがある。本を読む習慣のなかった人には、本を読むことは重荷であろう。
それで聖書を読むことも「重荷」なのだと思われる。聖書を読まなければならないということが、律法として迫ってくる。
聖書を読むことが「重い荷をになって坂道を登っていく」ようでは長続きするはずがない。
本を読むひとには、「軽い荷を袋に入れて肩にかけ、口笛をふきながら平らな道をゆく」ようにもなるのである。

聖書を読みたいという意欲がまずなければならないが、次に聖書日課を読むためには、その時間が平常の1日のスケジュールに組み込まれていることが大切である。スケジュールというものは様々な用事で乱されるが、元に戻す努力をするのである。

 繰り返しになるが、子どもたちが信仰を受け継いでくれたとき、当然豊かな霊性の持ち主になってくれることも願うであろう。
するとやはり「聖書を読むひと」になってもらわなければならない。
聖書を読まないで豊かな霊性を期待することは期待薄である。
子どもたちにとって、聖書を読むことが重荷とならないためには、幼いときから本を読むことができているとよいのだ。

だが、親が本を読まないのに子に本を読むことをさせることができようか?
これが難問である。

パウロはローマの獄中でも、本を持ってきてくれと頼んでいる。(テモテⅡ 4:13 ) 彼は本を読む人であったことは疑いの余地がない。彼は聖書を書いたひとであって、求めた本は聖書ではない。それで私たちも世の本は聖書でないからだめといわなくてよいのである。


全体の趣旨に反するが、集会に出席できず聖書を読めなくとも豊かな霊性の持ち主もいることだろう。神は例外を置かれることも承知している。だがすべての人が例外になれるとは思わない。