同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 旧約の信者と新約の信者 —


 私は、イエス・キリストの救いに豊かに与っている「新約の信者」である。
罪の赦しと新生のいのち、聖霊が私の内に住んでくださり、キリストと共に死にキリストと共に生きるということがどういうことか知っている。
 新約の信者はこういうものであるとわかるのと同時に、では「旧約の信者」はどういうものなのか?、と、その疑問に興味がわく。
 旧約の信者も間違いなく神を信じていた。アブラハム、モーセ、ダビデ、サムエル、エリヤ、エリシャ、イザヤやダニエルなどの預言者たちなど、私たちにはおよびもつかない働きを神のためにした人々が多数いる。
しかし、
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル 11:13)
「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。」(ヘブル 11:39)


 ヘブル人への手紙の記者が述べている「約束のもの」は、わたくしたちが頂いている、この罪の赦し、新生のいのち、聖霊の内住であることは疑いの余地がない。
 それはイエス・キリストがおいでになり、十字架の贖いと復活を通して人に与えられたものである。その時が来るまでは「約束のもの」であって、まだ人に与えられなかった。
 パウロは旧約の時代には隠されていて預言者たちにも知らされていなかった<奥義=秘密>として以下のことをあげている。

その1は、キリスト(=聖霊)が信者の内に住まわれるということである。
「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」 (コロサイ 1:26-27)

その2は、キリストと教会の関係である。私たちとイエス・キリストが夫婦のように一体であることである。
「「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ 5:31-32)

その3は、ユダヤ人も異邦人も隔てなくキリストの教会に連なることである。これは私たち異邦人にとっては、当たり前のように感じてしまうが、当時のユダヤ人にとっては大変なことであったことであろう。
「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(エペソ 3:6)

 私たちはそれらが実現した恵の時代に生きているのであるが、戻って、では旧約の信者はどうであったのか?ということになる。
ヘブル人への手紙の記者は、
「この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。」(ヘブル 9:9-10)
旧約の信仰は、やがてくる本物<イエス・キリストの救い>を示している模型に過ぎないという。


 今は聖霊が働いておられて、・・信者に対してだけでなく不信者にも・・聖霊が来られる前の時代を経験することはできない。しかし、自分の経験している救いに与る前の時が、少しだけ似ているのではあるまいかと推測する。
これは<推測>であることを強調しておきたい。

 不信者の間に育って、成人になってから信じ、救われた人には納得がいかないようであるが、私はまちがいなく救われる前にも聖書を信じ、イエスを救い主と信じていた。このことは教会で育ったひとびとには分かることでであろう。私は疑ったことがないが、ひとによっては疑いを挟むときもあるであろう。しかし信じている。
 信じてはいるこれども、極めてもろい信仰である。旧約のひとびとがすぐに、信仰からそれてしまう歴史が聖書に書かれているが、もっともなことであると感じる。