同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 神がよしとされること —


 この原稿を書いている今日から九日先に私「わたくし」・・(と読んで欲しい。「わたし」と読んで欲しくない。)・・の救われた日がやってくる。
 私の救いの証は、口頭で話したことも文章に書いたことも数多くあるので、既に皆さんもご存じかも知れない。
 私が救われたのは19歳の時だったので、もう58年も経った。しかし、今も尚あの日のことをありありと覚えている。
 物心ついたときから、神がおられること、聖書は神の真実の書であること、イエスが救い主であることを疑ったことがないが、それは「そう思っているだけ」であった。
意識して教会を求めたのは、自分の心の「虚しさ」に気づいたからであった。「虚しい」何をやっていても「虚しい」のであった。
 礼拝の説教に先生が「あなた方は神に近づく道か、神から遠ざかる道か、どちらかを歩んでいる。中間はない。」と語られた。そのとき自分は神から遠ざかる道を歩んでいると思った。 そしてこう思った。

「神に近づく道を行きたい。」

 そして教会の集会に出ることが、自分にできる神に近づく道であると思った。私は盛岡の教会で洗礼を受け、その教会の会員になっていたので、いま出席している仙台の教会に転会させてもらい、集会に励もうと思った。
 今考えれば、手順が違っていたかも知れないが、とにかく盛岡の教会に行ってそちらの教会の先生を訪ね、転会状を出していただくように依頼した。
とって返して、仙台の先生のところに行った。
 帰りの列車から仙台駅におりて、教会にむかう途中、「もうダメだからやめよう」、とささやく声があった。
それに対して聖書のみことばがあった。

「まして、天にいます汝らの父は、求むるものに善きものを賜わざらんや。」と。

 どちらも耳に聞こえる声ではない。こころに直接響くものである。そして自分自身の心の声(自問自答)ではない。
 私は後の声を「神がそう仰っている」と信じた。
 教会を訪ねて先生に転会を認めていただき、祈っていただいたとき救いの恵みに与った。
 神は何を「善きもの」と認めて、それを下さると言われたのか、と考える。
そして、私が思い立った、「集会にでて、神に近づくこと」をよしとされたのであると思うのである。
 以来、この58年間、ほとんど集会を休むことなく過ごすことが許された。
教会を離れずに済むように勤め先を選択する場面もあったし、2年と少しの間東京に出向したり、7年ほど二本松の会社に通ったりしたことがあり、その間も集会を休まないためには、多少の努力が必要であったが、企業戦士と呼ばれる生活をしながらも集会出席を全うできたのは、神が私の思い立ったことを「よしとしてくださり」そうできるようにして下さったからであると思っている。