同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 神の配剤 —

yuko-san

齋藤 優子




「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ 6:31-34)

 私たちの淡々とした一日の歩みにも、神は人の思い、私たちの思いがどこに向けられてしまうかを見抜いておられ、今年この御言葉を与えて下さいました。そのためこの御言葉にもう一度向き合うことができ、感謝しています。
 この年もはじめの礼拝の中で、神の言葉は”生きる”ことに繋がっていることを、先生が語っておられました。
“心配”や“切に求めているもの”、そのような現実の中に私たちは生かされています。そしてそのことがまた私たちの生きる上での闘いであることを思います。こう書きますと、何か頑張っている姿のように見えて、その方がカッコイイことかも知れませんが、私自身、そう思わせている自分自身に疲れ切ってしまったことを思い出し、とてもつらく感じました。そのことが神と共に歩むこととはかけ離れてしまっていて、自分で自分のこころを窮屈にしてしまいました。
 そういった自分に向き合う切っ掛けとなったのが主人と共に開いた事業でした。今年で6年目に入りました。その事業は、主人が示されて始めさせて頂きましたが、当初私は主人と同じようには思えませんでした。準備も十分ではなく、私にとっては未知の部分もあり、神が示して下さったこととは思えないほど、私が思っているような簡単なことではありませんでした。それこそ“心配”と“行き詰まり”の繰り返しで、心に余裕もなく過ごしました。
 けれどもその中で私は神に祈り、この思いから抜け出したいこと、与えられたこの事業を何とか形にしたいことを祈りました。そういった抜け道のない中に神は私にあらわれて下さいました。
“しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。”(コリントⅡ 12:9)
 自分の限界や弱さを示された時にも、神は“わたしの恵はあなたに十分である。”と仰ってくださいました。  神は私に“あなたの側にいつもいる”とはっきりと示して下さったのです。その時初めて神がいらっしゃることの確信が与えられ、心が平安に満たされ、喜びがわきあがったのです。
自分でやろうとする、また、自分にできるのではないかという傲慢な思いから解放され、神にお委ねさせて頂いたことによって、私ではなく、神が今私に示されたこととして受け入れさせて頂き、聖霊の助けによって見ている所が変えられたことは、私にとって大きな学びであったことを心から感謝しています。
 もちろん今も事業の厳しさや悩みは尽きませんが、神の確信が与えられた今は、神のご計画は私には分かりませんが、尚、神を待ち望みつつ、忍耐をもって次にやるべきこと、やらせて頂く力を勝ち取らせて頂きたいと願っています。
 何よりも礼拝のメッセージの説きあかしの中と、礼拝前に学びとして野澤兄を置いて下さり、主人と共にしている“救霊の動力”の学びは、自らを整えることができる大切な学びであることを感謝しております。
“十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。”(コリントⅠ 1:18)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)