同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 祈り —

kokoro-san

森田 心

「主よ。恵みも、あなたのものです。」(詩篇 62:12)

  今年で3回目になります私たちの教会のサマーキャンプに参加させていただきました。3泊4日の日程の中で、1日のみ参加を予定していましたが、仕事の都合も具合が良く、最終日の早天祈祷会にもでることが許されました。

 祈りのはじめの話の中で、祈りは神が私達すべての者に備えて下さった賜物ですと言われました。そしてその祈りの力によって待ち望むこと、神の御手が働いて下さること、心の平安が与えられることを教えられました。
 私は今年3月から、仕事の転勤のため、釜石へ単身赴任となりました。週末に帰ってきて聖日は礼拝を守ることはできますが、平日の集会には出られず、少し心の整理に戸惑いを持つ日々が続きました。その中で静かに祈ること、又一日の生活の合間にも、ほんの少しの時間の中でも祈るようになりました。この経験は、私の信仰者としての歩みの中で乏しかったことを思わされます。

 その思いの中でのサマーキャンプ最後の祈りの集会は、大きな恵みの時となりました。祈りへ集った方々へ、出来ますならば1つの事、もしくは一人の方の為にいのっていただきたいと話され、お一人ずつ、家族の為に、献身者の為に、お歳を召され病の内にある方の為に、牧会者の為に・・祈りが献げられました。
 私はその事を言われた時に、息子、三男の為に祈りを捧げさせていただこうと思い祈りました。彼はこの春から社会人となり、歩み始めた中で、仕事の重圧、教会のご奉仕、福音の働き、祖父母のことなどが重なり、体調と霊的にも弱くなっていたように思います。そういった時に、いつも私以上に近くあって支えて下さる先生がおり、回復が与えられ感謝をしました。

 遠く離れている中でも電話などで会話をすることは出来るのですが、その時をたくさん持つより、私は彼が神の愛と恵みの中にあることを願い祈る中に身を置きました。
 若い彼にとって、神から与えていただいている尊い宝もほんの少ししか分かっていないように感じます、世の中では経験によって、そしてその成果によって、自らの力を備えていくでしょう。しかし、神のしもべは神の願われる一つの器官として生かされ用いられるならばよいと思います。
 そして私が彼に願うことは、彼を通して生かされ生きる方があるならばと思い、その為に、誰よりも力強く、早く走ることより、ゆっくりゆっくり歩むことによって、見えてくるものがあり、その見えるものに取り組んで行って欲しいと願っています。

 私もこの歳になり、心から、「主よ。恵みもあなたのものです。」と讃美することができます。それは自らの信仰者としての歩みの足らなさを十分に承知しているからです。しかし、時にかなって神は恵み豊かにおおって下さり、ここまでくることが出来ました。だからこそ、次の世代の方たちへ少しずつ受け渡していきたいものは真の選びを知る者となって歩んでいただきたいということです。だんだん先頭を切って走って行く者ではなくなるでしょう。その中で教会の祈りの器として生きて行くことが出来ることを望み進んで行きたく願っております。
(仙台聖泉キリスト教会会員)