論説
— ペンテコステに学んでおくべきこと(3) —
「わたしは世の光です。」(ヨハネ 9:5)
「やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。」
(ヨハネ 12:35)
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
(ヨハネⅠ 1:7)
自分の人生を信仰を持って生きようとしたら、生きているあらゆる場面がその対象となります。自分自身のこと、教会のこと、夫婦の間のこと、子どもとのこと、親とのこと、親戚のこと、仕事関係のこと、周囲の社会のこと、自治体や国のこと、なんと多くのことがらがそこにあることでしょう。その中を福音に相応しく生きることになります。隣人の課題に分け入って一緒に担ったり、距離をおいて立ったり、適切な対処は様々であって、それには、知識、技術、技量、知恵を必要とします。それらはあまりにも多彩であって、そういうものだということを一般論として把握できるだけで、詳細を語るほどのものを私は持ち合わせておりません。それから、生きていく上で起きてくるすべてのことが、信仰と関わるのはその通りですが、信仰といって構えなくてもよいこともたくさんあります。
ただし、聖化、聖潔というものは、それらの事柄に私たちが福音に相応しく生きることに大いに影響します。ですから、
きよめの道を 全き歩みを
日ごとにたどる ものとならまし
君なるイエスよ かよわき我を
常に光に 歩ませたまえ
という讃美を、皆さんはこころから歌っているでしょう。
そのようなことを覚えながら、皆さんにこの問題に対するヒントになることを願って、以下の点について解説を付け加えたいと思います。
1.光の中を歩む
2.聖化の恵を妨げるもの
1.光の中を歩む
皆さんは光の中を歩んでおられますか?ことばを知っただけで喜んで終わりになっていませんか?
ヨハネの述べている光は、聖化の恵に至る道であり、聖化の恵を受ける道であり、聖化の恵を受けた後に福音を飾って生きる道です。
光に生きたい人が最初にしなければならないことは自分のこころを見張ることです。
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言 4:28)
パウロは自分は良心に従って生活してきたと証言していますが、それは彼が絶えず自分の心を見張っていたということです。
こころの働きは感情と結びついています。
それで喜び、怒り、悲しみ、不安と平安、更に、願望、欲、意志、そして罪も、神やしかるべき人への服従も、信仰もこころの働きです。
私たちがへりくだって、自分のこころを見張り、光を求めるならば、聖霊は当面していること、自分がしようとしていること、あるいは行ってしまったことについて、その善し悪し、みこころに適うか否かを分からせてくださるのです。
イエスは
「みこころに従おうとするなら分かります。」
と言われました。ですからまず、自分のこころをよく観察して、従おうと思っている自分を見ていなければいけません。
そうでないと、光の中を歩むということはおぼつかなくなります。こころから神に従おうと思っているなら、「分からせていただける」ことを確信していてよいのです。
行ってしまったことについて、「それはよくありません」と分からせていただいたなら、すぐに悔い改めて、キリストの血を仰ぎ、その行いを改めることが必要です。
行おうとしていることについて、それは神の喜ばれることではない、と分かったら直ちにやめることです。
いいかな、だめかな、・・と逡巡して、それをもてあそんではいけないのです。
さきに、神に祈ろうとすると自分と神との間にぶら下がるものがあって、いつもそれがでてくるということふれました。そのぶら下がるものは、神がそれはダメですと言っておられるサインです。
光によって自分の醜いすがたが明らかになります。ですから神は私たちが光を見ることができるように目薬を買いなさいといわれます。
「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。・・・あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
(黙示録 3:14-19)
これを他人事としませんように。
「私は光の中を歩みます」と不退転の決意をもって取り組んで下さい。
2.聖化の恵を妨げるもの
ナザレ人なる イエスのために
立ちて戦う 者は誰ぞや
我がすべてなる 愛するイエスよ
すべてを献げ 我主に従わん
この讃美がよく歌われますし、こころからそれを歌っていると思います。
「すべてを献げて主に従う」ことは聖化の恵に与る要件を満たしているのです。それなのに、聖化の恵に与りましたという証が少ないように感じます。それで、なぜか?と考えさせられます。次のようなことをこころにとめて恵を求めるとよいかも知れません。
<知ろうとすること>
聖化、聖潔というものを分かろう、分かろうと努め続けることは無益です。
いくらキリスト教について知っても、信じなければ「救われる」ことがないのとおなじことを、聖化の恵を受けようとするときにしているということです。
「聖化の恵はある」のです。それは聖霊に満たされることなのですから、それを「ない」という人は聖書を否定しています。
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」(テサロニケⅠ 4:3)
「聖潔に進みなさい。」(ロ-マ 6:19)
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
(テサロニケⅠ 5:23-24)
この恵を神が与えたがっておられるのに受け取ることができないのは、「知る」ということに頼るからでしょう。
先人の書いた書物などから、内容をすこし理解しただけで、恵を頂いたと錯覚するのかもしれません。それで漸進的聖化などということを主張し始めるのでしょう。
これは聖霊と火のバプテスマであって、知ることによって到達できるものではありません。それは信仰によって受けとるものです。
私はあちこちでこう述べているのですが、愛を少し理解して、素晴らしいと思っただけで自分は愛を持っていると思い込むひとがいます。そう思っただけでは愛のひとにはなれません。
聖化の恵も同じです。
<自分の決意による献身>
先に掲げた讃美歌、
すべてを献げ 我主に従わん
という讃美ですが、それは「自分の決意」であって神に受け取って頂けていないのかも知れません。
もちろん自分の決意は重要で、それなしに献身はありえませんが。
皆さんはカインとアベルの捧げ物についてよくご存じでしょう。それはこの問題にも当てはまります。
もし「自分の決意」のみで神に受け取っていただこうとしたら、やはりカインの捧げ物でしょう。
私たちが礼拝をささげるときも、献金を献げるときも、イエス・キリストの贖いを通して神に受け取って頂くのです。
そのようなことを意識して、もう一度「神よ。私をお献げします。イエスの血を通して受け取って下さい。」と願うとよいでしょう。
イエスは「供え物を聖くする祭壇」と言われました。
神に捧げられたものは、神のものであって「聖い」のです。
神に自分を受け取っていただくことができたら、ためらわず「イエス・キリストの血が、私を聖めてくださった」と信じましょう。
<サタンの声>
クリスチャンが聖化の恵にあずかることは、サタンにとって大問題です。ですから、皆さんが本当に恵を受けようとすると、試みる者がやってきます。大方はこうです。
・マインドコントロールされるぞ。
・盲目にされるぞ。
・奴隷にされるぞ。
・・・
逆なのです。マインドコントロールするのはサタンです。盲目にするのはサタンです。奴隷にするのはサタンです。
先に述べてきましたように、
・聖霊は、人を全く正常にします。
・光を与えて、物事を正しく見ることができるようにします。
・聖霊は人を自由にします。
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(コリントⅡ 3:17)
繰り返しますが、聖霊は助け主であって人の主権を奪い、奴隷にするなどということは決してありません。
神は人間が自由であって、自分で自分の行動を決めて、喜んで自分から進んで神に従い神の御旨を行うことを望まれるのです。
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ 6:12)
サタンの声を聞いたなら、断固としてそれを退け、
「私は、イエスの奴隷で十分です。」と宣言しましょう。
「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。
それゆえ、彼らの中から出て行き、
彼らと分離せよ、と主は言われる。
汚れたものに触れないようにせよ。
そうすれば、わたしはあなたがたを受
入れ、わたしはあなたがたの父となり、
あなたがたはわたしの息子、娘となる、
と全能の主が言われる。」
愛する者たち。私たちはこのような
約束を与えられているのですから、
いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」
(コリントⅡ 6:16-7:1 )